2016年4月11日月曜日

SEALDs for Contexter

政治学科


早稲田大学政治学部政治学科を卒業している。でも大学で政治学を学んだ覚えはない。
単位はいい加減なレポートを提出したらもらえた。成績不良でゼミには入れてくれなかった。したがって卒業論文も書いていない。

僕が田舎の高校から早大に入ったのは1970年4月だった。政治の季節の燃えかすがくすぶっていた時代。
キャンパスはまだ騒然として授業は少なかった。では「都の西北」にいた4年間、何をしていたのか?
早稲田大学出版事業研究会(以下、出研)というサークルにいたのは間違いない。そこで出会った「草莽の士・高橋ハムさん」のことはすでに書いている。


1970年11月20日発行の「学生誌ワセダ」の別冊「70年6月東京安保」という雑誌にはこんな記事がある。
明確な政治的展望をもたないベ平連運動が今後、どのような展開を見せるかは予測し難い。圧倒的なデモ人数によって、七〇年代は「市民運動」の時代だとマスコミは、もてはやす。しかし、そのマスコミにのって、ベ平連が一つの流行となり、デモに参加さえすれば、安易な連帯感(=情報化社会における安心感)や、廉価な免罪符を得たような気になる危険な風潮がないであろうか。このような陥穽をのりこえつつ、ベ平連運動の質が、今後ますます拡散しつつも、深き統一を目指して、七〇年代日本の社会状況に一大流動化をもたらすことを期待したいものである。
これは「ベ平連の六月闘争」というルポルタージュの結語である。こういう文章を書く人を左翼というのだろう。それにしても大上段に構えた臭い記事だ。

このルポを書いたのは18歳の僕である。恥ずかしい。でも学生ってそんなものでしょ、と開き直ることができた。2015年、SEALDsが登場するまでは。


三無主義しらけ世代


タイムラインは一気に40年を走り抜ける。
1974年、僕は広告会社に就職し、36年後の2010年に早期退職をした。
クリエーティブ・ディレクターを卒業したらコンテキスター(文脈家)になると宣言して、よしなしごとを書き連ねているのが、皆さんの時間を拝借している拙ブログである。
2011年3月11日から1年経った頃、僕はこんなことを書いている。
僕は政治的文脈で発言したくない。
コンテキスターは文学的文化的文脈で列島の復興に向かって声を上げていきたい。
そして、それは地に足をつけたものでありたい。
天地有情に寄り添って口より土を大切にしていくこと。
脱原発のデモや集会に行くことも声の上げ方のひとつだと思う。ただし今現在の僕はデモに行く気はない。
1970年のあの敗北感がトラウマになっているのかもしれない。
声の上げ方にはさまざまな方法論があるはずだ。列島民がそれぞれ抱えているそれぞれの事情の中で声を上げればいいと思う。
僕の場合は文学的文化的に語られる復興の思想を繋いでいく。
それが田中文脈研究所という屋号を上げて、コンテキスターという肩書きをつくった者のミッションだと確認し確信した。 
田中文脈研究所『脱藩2周年・極私彷徨』2012年6月9日
まったく潔くない。なぜ政治を避けたのか。
その理由は自分の世代論とも関わってくる。1952年生まれの僕はよく団塊世代と一緒にされた。それは納得できない。戦後7年までの世代は二、三年の差が大きなものになる。
団塊世代は、その一部が全共闘世代とも呼ばれるようになった。
僕は全共闘ではないのだが、先輩たちの敗北感に影響を受けた。

もう少し、僕の世代論におつきあい願いたい。
1950年代前半に生まれた者は「しらけ世代」と言われることもある。
その主張(?)は「三無主義」。
無気力・無関心・無責任で、すぐに「しらけた」と言っていた世代のエートス(習俗)を指した言葉である。

ちょっと気に食わないことがあると「しらけた」を連発して、後はしらん、という態度を取っていた覚えが確かにある。

ウィキペディアによれば、1954年生まれの安倍晋三も「しらけ世代」に属するとある。
なるほど。立憲主義を学ぶ気力もなく、憲法改正以外には関心がなく、主権在民に対する責任感もないはずだ。

他人の話よりも自分のことだった。
三無主義を抱きしめて広告会社に入った僕は、会社の仕事と釣りだけに集中した。
恥ずかしながら選挙にも行かなかった。政治的には無関心を貫いていた。

そして3.11でショックを受けてからは「半農半Xという生き型」を自らの倫理と規範にすべく動いてきた。
それでも政治的文脈には関わりたくなかった。一度だけ盟友と関電前集会に行ったことはあったが、路上には出ていない。2015年にSEALDsが登場するまでは。


SEALDsとコンテキスター


僕は今、政治とSEALDsを自分の文脈で書いてみたい。
SEALDsが結成されたのは2015年の憲法記念日。まだ1年も経っていないわけだ。これってすごい。

僕はSEALDsに背中を押されて45年ぶりに政治集会に参加した。
7月18日、大阪の扇公園。


デモはデモなんで、パレードなんてネズミがボスのレジャーパークのような言葉は使ってほしくない、と思いながら、仲間と歩いた。


昔懐かしいメーデーの定番ソング「がんばろう!」も好きじゃない。ボブ・マーリーを聞きながら歩きたい。僕はこれまでもこれからも「動員」という言葉とは無縁なのだ。


そして、本命SEALDsの街宣に初めて参加したのは8月14日。京都駅前街宣。
「しらけ世代」は感動した。はじめてSEALDsメンバーのスピーチをライブで聴いて。僕のSEALDs体験の原点である。

その日、安倍晋三は主語のない空虚な戦後70年談話を垂れ流していた。その同じ時間帯に聞いたSEALDs Kansaiの塩田潤さんのスピーチは以下のように締めくくられた。

「僕らひとりひとりの中にある言葉を紡ぐことが、この狂気ともいえる政治に対する強力な手段となります。僕は戦争に反対です。僕は立憲主義、民主主義に基づく政治を求めます。あなたの言葉を発信してください。あなたの言葉で発信してください」

SEALDsは言葉で安倍晋三に挑んでいた。しかもひとりひとり、自分の言葉で。
私たちは、尊い命を軽んじる態度を、歴史から学ぼうとしない不誠実な姿勢を、目先の利益に捉われる偏狭な考えを、立憲主義や民主主義の軽視を、権力による情報統制を、「積極的平和主義」という偽りの平和を、決して認めません。私たちは、二度と同じ過ちを繰り返さないために、自由と民主主義を守っていきます。
(中略)
私たちは、自分の頭で思考し、判断し、行動していきます。それを不断に続けて行きます。 
『戦後70年宣言文』(自由と民主主義のための学生緊急行動)

「アジ演説」という名のスピーチが1970年にはまだ残っていた。全共闘の残り香を嗅いだ僕はそのトーンを覚えている。
「われわれはあ~ふんさいするぞ~たたかうぞ~」
主語は我々であった。

SEALDsは「私は」という文脈で話す。そして最後に自分のサインをする。
この法案が通って死ぬのは民主主義ではなく、現政権とその独裁政治です。
民主主義は止まらないんです。次の選挙で彼らを必ず引きずり下ろしましょう。それが出来るのは、出来るのも、しなきゃいけないのも、政治家ではない私たちです。やれることは、全部やる。私は絶対に諦めません。
2015年9月19日、大澤茉実、私は強行採決に反対し、安倍政権の退陣を求めます。(引用者註:安保法制強行採決日の未明、国会前スピーチ) 
https://youtu.be/gcpzj7FWHg0
大澤さんは「私は、命をかけて言葉を選んで喋ったり書いたりしている」と言った。
そのように書いた論考がある。
私は、SEALDsで活動をはじめてから、多くの学生が「わたし」を主語に話すスピーチに何度も心を動かされた。それは、ジェンダー、国籍、階層、文化的背景などのさまざまなアイデンティティの束であるそれぞれの個人と私とのあいだに確かに通じ合うものを感じたからである。 
『SEALDsの周辺から―保守性のなかの革新性』(大澤茉実/現代思想2015年10月臨時増刊号)

僕も文化的背景(コンテキスト)を持っている。世代としてのアイデンティティの束も持っている。ならば、SEALDsの個人たちと通じ合うためには自分のサインをしたスピーチを(心の中で)する必要があるだろう。
わたしは1952年、サンフランシスコ講和条約が発効する直前に生まれた者です。
その後の高度成長とともに育ちました。
わたしは「戦争を知らない子供たち」と唄われた世代のひとりです。今、わたしは日本国憲法に守られて育ったありがたみを噛みしめています。父や母や祖父母があの戦争で流した血と引き替えに獲得したものを70年で失うわけにはいきません。
このまま、安倍政権の暴走を許せば、自分の孫たちの世代を「戦争しか知らない子供たち」にするかもしれません。
そんな大袈裟な、と言われそうですが、現実にアメリカは第二次世界大戦後も「戦争をし続けている国」なのです。そのアメリカと一緒になって、地球の裏側まで自衛隊が行くことになれば、「戦争しか知らない子供たち」が生まれる可能性は大きくなります。
安倍晋三は歴史を正しく学ぶ意欲も能力もなく、ただ自分の祖父、岸信介を超えたいという自分勝手な妄想に取り憑かれて、日本国憲法に対するクーデターをしでかしました。
そんな自称、最高責任者に孫たちの美しい未来を託すわけにはいきません。
我が子を戦争に行かせたい母はいない。父もいない。そして孫を戦争に行かせたい祖父母もいない。子や孫を殺されたくない。そして他国の子供を殺させたくない。「だれの子どももころさせない」。
2016年4月11日 田中文夫。わたしは安保法制の廃案を求めます。そのために精一杯の声でコールしたいと思います。アッベはやめろ!
うーん、心の中でスピーチしても、ちょっと堅いかな。左翼用語が出てこないのはよかったが……。まあ今日はこのくらいでカンベンしたろか。



SEALDsと島根


僕と彼らのスピーチの射程距離の違いは、切実感によるのかもしれない。
射程距離などという戦争用語を使うのはやめよう。発せられる言葉の到達深度。涙腺刺激度。そういう度合いでいえば、寺田ともかさんのスピーチ!

2015年、SEALDsの母となり、カキオコメディアの創始者となった小原美由紀さんの言葉を借りれば、ともかさんは「スピーチの女王」である。
清楚な風貌と関西弁、やわらかく、そして核心をぎゅっとつかんで私たちの言葉にならない思いを言語化してくれる。
ともかさんのスピーチには、全国に多くのファンがいます。
いつも、すうっとやさしく胸に吸い込まれつつ 思わず「そうだ!」と大声で叫びたくなってしまうほどの共感を引き出す魅力を持っています。 
(小原美由紀「日本科学者会議」FBイベントページより)
そうだ!僕もともかさんのファンだ。
大阪のおばちゃんがSEALDs Kansaiのコールリーダー、野間陸さんの声が途切れたとき、「代われるものなら代わってあげたい」というように。
大阪のおばちゃんが、生でUCD牛田くんを見た時、「うれしわあ。こないだアキくんも見たねんよ」というように。
そうなのだ!僕はともかさんのファンである。


SEALDsの数多い名スピーカーたちのなかで、ともかさんをマイ・フェイバリットにしたのは訳がある。
それは、寺田ともかさんが「島根は第二の故郷です」と言っていることと彼女のスピーチに包含されているシニア世代へのリスペクトだ。

まずは島根の話である。僕のコンテキスト内で大きなポジションをしめる地域だ。
2015年12月13日、寺田ともかさんは松江で講演した。僕は参加していないが、松江のFB友達がそのスピーチを絶賛した。音声データを聞いてみる。彼女は写真を見せながら講演したようだ。


「高校の三年間をこの島根県で過ごしたので、勝手に第二のふるさとだと思っています」と彼女がしゃべったとき、オーディエンスから拍手が起こる。

「私は松江は都会だな、と思ってびっくりしたのですが、江津(ごうつ)市の浅利町という山の上にある、こんな感じで山を登っていくとあるキリスト教愛真高校という小さな全寮制の高校で三年間学んでいました。山の上にあって海が見えるすごく綺麗なところにありました。島根らしく瓦屋根の学校です。とても自由な高校でのびのびと育ててもらった記憶があります」

僕は驚いた。
ということは、ともかさんは、奥田愛基さんと同じ高校の卒業生なのか。それで松江に呼ばれたのか。彼女は自身の高校時代の農作業写真を見せながら、こう続けたらしい。

「畑仕事とかも学校の中で、普通科なんだけどしていたので、私は島根でお米をつくっていました。高校時代の写真で、今日、こっちに写っている恩師の先生も会場に来られているのですが、えっと、赤いパーカーを着ているのが私です。
下の段の真ん中でツナギを着ているのが、こないだ国会で公述人として呼ばれた奥田愛基くんです」

ずっと『国つ神と半農半X』を追いかけている僕は、「周回遅れのトップランナー」島根の(農的)先進性を理解できる。

彼女のスピーチに親和性があるのは、地に足をつけたものだからかもしれない。かけがえのないいのちへの不断の想像力を持つからなのかもしれない。

「自民党の改憲草案を読みました。あの草案の根底にはすべての命には絶対的な価値があるという事実を否定し、彼らの目指す間違った国家のあり方に貢献できる生産性のある人間にしか人としての権利を認めないような虚しい価値観があると思えてなりません。私は今回の選挙は命の尊厳をかけた闘いだと思います。私はすべての命には絶対的な価値があると信じます」

僕が松江の会場にいたら、拍手とともに眼から落ちるものがあっただろう。

またともかさんは、あの国会前12万人デモ(2015年8月30日)でも、このようなスピーチをしている。
すべての命には絶対的な価値があり、私はそれを奪う権利も奪うことを許す権限も持っていません。なぜならいくら科学技術が進歩しても、私たちは死んだ人を生き返らせることはできないし、奪った命を元に戻すことはできないからです。今、この法案を許すことは私にとって自分が責任の取れないことを許すということです。それだけは絶対にできません。 
寺田ともか「2015年8月30日国会前スピーチ」 
https://youtu.be/Z7seKSiiiXY 
そして、いのちへの想像力は、彼らより長く生きてきた世代へのリスペクトに繋がる。
しかも、その表現はすうっと、ずしんとシニア世代に届いていく。

「SEALDsのデモや街宣の活動はメディアに大きく取り上げられたし、若者たちが立ち上がったと注目をされました。でも路上ではずっとこれまで闘ってきたであろう、お爺さんやお婆さん、私たちの世代に平和な世の中を残したいと杖をつきながら、凛と立つ人生の先輩方がいました。そういうオトナの方々は平和とは何もしなくても、そこにあるものだと思っていた私に、それを壊そうとする者との闘いの中で守り、作り上げるものなのだということを教えてくれました。だから、私たちがこの夏、突き動かされるように行動せざるを得なくなったのは、つらい戦争体験を魂をこめて、何度も語り継いできてくださった方々や、これまでずっと闘ってこられた方がいたからだと思っています」

そうだ!涙そうそう。

『国つ神と半農半X』の取材の道中で、江津を通ることがあった。寺田ともかさんと奥田愛基さんが見ていた風景はこんな感じだろう。



SEALDs世代とシニア世代


SEALDsメンバーが持っている切実感は、「ジャスト311世代」とでも言うべき時代の節目から生まれているのかもしれない。

2011年3月11日、奥田愛基さんはキリスト教愛真高校の卒業式を翌日に控えていた。寺田ともかさんは高校2年生だった。大澤茉実さんも高校生。野間陸さんは高校に入る直前だった。

311からの5年間は、自分たちの未来は決して明るくはない、と教えてくれたようだ。切実に現実的に。当たり前のようにあった日常が突然、失われること。大気に不安定なものが混じって取り除くすべがないこと。

そのようにして、山河破れた国には、右肩上がり幻想をふりまき、戦争したがる総理、安倍晋三が君臨する。

「政治に無関心」とか「草食系」とか「ゆるい」とか言われた若者たちは、自分たちの生活実感の中で「裸の王様」の嘘に気がついたのだろう。大澤茉実さんは自分のアルバイト仲間から学んだ。
離婚で心を病んだ母親が失踪した女の子は、アルバイトの求職を願い出た。それ以後、僕力をふるう兄と二人きりになった彼女とは音信不通になった。またある女の子は、奨学金の返済に追われ、おなかの子どもを堕ろした。シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないと、一緒に制度を調べ、パソコンの画面の前で泣いた。家に帰っても食事が出ないため、お菓子ばかり食べている子もいる。調理器具も食材もない台所。帰らない母、会話のない父。 
『SEALDsの周辺から―保守性のなかの革新性』(大澤茉実/現代思想2015年10月臨時増刊号)
シニア世代の中には、すぐに安倍晋三の危うさに気がついた者もいる。その危機感は経験値に裏付けされていた。僕もその一人だった。
アベシンゾーはヤバイ(悪い意味で)!  「満州国」と岸信介に関する文脈をおさらいしたらすぐに分かる。


さりげなくシニア世代という言葉を使っているが、その幅はあまりに広く人口は多い。
町でも村でも、最近はやたらにおじんおばんが目につく。それはSEALDsの街宣やデモでも同じことなのだ。
SEALDsのおかげで、路上でも全世代共闘ができつつあるが、その中でも、いわゆる「シニア」が目立つ気がする。これは自分と同じ年代層を探す同士的本能(?)なのかもしれないが。
単純に人口比の問題もあると思うんですよ。60年や70年に比べると圧倒的に逆三角形の人口ピラミッドだから。50代~70代くらいの人たちって、僕らの3倍以上いるわけですよね。 
『民主主義ってこれだ!』(SEALDs/大月書店)P135 奥田愛基
何度もデモや街宣に行っていると仲間もできてくる。当然、シニアである。
1941年生まれの春樹さん。元東大全共闘の山本義隆さんと同い年である。
そして彼の父上は1943年にニューギニアで戦死しているそうだ。


「戦争法案」が「安保法制」として強行採決され施行日が近づいてくると、また声を上げる人が増えてきた。

2016年3月6日。大阪うつぼ公園。SEALDs Kansai、SADL、T-ns SOWL主催の「安保法制廃止を求める大阪デモ」。

この日、僕は思いがけない人と再会した。
広告会社にいたときの先輩Mさんである。先輩が僕を見つけてくれた。声をかけられた僕はぽかんとしていたかも。まさか、デモ会場で!?Mさんと。
「俺は60年安保世代や。昔の仲間といっしょに、ずっとSEALDsの呼びかけに応じてきた」と言う彼は、僕にとっては体育会系の先輩だった。

「三無主義しらけ世代」の僕が会社にいる間は、政治に無関心だったように、大学で新聞サークルにいたMさんも会社では政治的発言を控えていたように思う。

嬉しかった。路上に出てよかった。政治的文脈研究生活も悪くない。
デモの隊列は違ったが、御堂筋で僕と同じように「This is what democracy looks like!」というコールにロレツを必死で回しているMさんを想像すると今でも楽しくなってくる。


2015年の夏は山の陰に通いつづけながら、京都でも松江でも高松でもデモに行った。やっぱりシニアが目立つ。「私は70年安保です」という人ももちろんいた。
SEALDsは若者の社会運動だけど、それを支持している人々には決して若いとは言えない人も多い。
私は毎週国会前に立ち、この安保法制に対して抗議活動を行ってきました。そして、たくさんの人々に出会ってきました。
その中には、自分のおじいちゃんやおばあちゃん世代の人や親世代の人、そして最近では、自分の妹や弟のような人たちもいます。
確かに、若者は政治的に無関心だといわれています。しかしながら、現在の政治状況に対して、どうやって彼らが希望を持つことができるというのでしょうか。関心が持てるというのでしょうか。私や彼らがこれから生きていく世界は、相対的貧困が5人に1人と言われる超格差社会です。親の世代のような経済成長もこれからは期待できないでしょう。いまこそ政治の力が必要なのです。 
『参議院特別委員会公聴会意見陳述全文』奥田愛基

いまこそシニアの力も必要なのかもしれないと思った者は路上に出た。手に持つプラカはしわくちゃになってきた。


『シニア左翼とは何か』をめぐって


そろそろ「シニア」という言葉が気持ち悪くなってきた。僕が「死ぬまで18歳」と言い張っているからだけではない。「シニア」という言葉はどうも得体がしれないのだ。

同じように得体がしれない言葉に「左翼」がある。もちろん、僕は右から見たら左なんだけどね。

うつぼ公園でMさんと出会ってから、僕は気になっていた本を買った。
『反安保法制・反原発運動で出現―シニア左翼とは何か』(小林哲夫/朝日新書)


「孫を戦争に行かせたくない!」と帯にある。分かりやすい本だ。ときどき僕が書いたのかと錯覚するような部分もある。早大の先輩、高橋ハムさんも登場する。


この本によれば、「シニア左翼」の定義は以下である。
シニア左翼とは、60歳以上で反体制運動に関わっている人たちである。高齢者左翼、シルバー左翼といってもいい。肩書きは会社員、公務員、自由業、無職などさまざまだ。(P28)
さらに、「左翼」の定義についても独自のものを設けた。
現政権を厳しく批判してトップの交代を求める反体制勢力である。このなかには、資本主義体制の堅持を主張する人や、社会主義体制への移行を訴える人など、さまざまな考え方を持つ人たちがいるので、根源的な思想やめざす体制までは踏み込めない。あくまで、「反政権」「反政策」という一点で広義な意味あいを持たせて、左翼と位置づけたい。(P26)
うーん、この定義で「左翼」と表記するのはちょっと抵抗がある。
1961年生まれの小説家、島田雅彦が「サヨク」とカタカナで書いたのは、この違和感だったのか。


「左翼」はマルクスレーニン主義者、共産主義者。党派を好む。
「サヨク」は、同調圧力には負けずに、おかしいことには「おかしいだろ、これ」と声を上げる者。基本的には個人主義者。

僕は『シニア左翼とは何か』という新書と「左翼」への違和感を抱えて、SEALDsの街宣に行く。

3月29日。大阪梅田ヨドバシカメラ前。
たくさんの「60歳以上に見える安倍晋三にやめてもらいたい男女」の間で本を取り出してみる。


僕の横にはいつものように春樹さんがいてくれた。この夜、彼は僕がフェイズブックにアップしたともかさんのスピーチを見て、梅田にやってきたという。残念ながら、彼女のスピーチはなかったけど。


街宣のあと、ビールを飲みながら僕は春樹さんに『シニア左翼とは何か』の話をする。本を渡して、撮影させてもらう。若干の違和感を感じながら。もちろん自分も撮影してもらう。


やっぱりどう考えても春樹さんは左翼ではない。僕も左翼ではない。
本人も言われるように「中道」なのかもしれない。安倍政権が右に寄りすぎているのだ。極右なのだ。

だが、「中道」みたいなぬるま湯ワードも気に入らない。僕や春樹さんが抱きしめている感情は「どっちもどっち」的な言葉では納まらない。そもそも右と左のバランスが取れていてこその「真ん中」なのだ。
春樹さんもファンになった寺田ともかさんの言葉を聞いてみよう。
自分なりに答えを出して、自分がどこに立つのかを明確にしなければ、そして自分の信念に基づいて行動しなければ、ただ考えるだけでは意味がない。ほんとは存在しない中立というぬるま湯につかって考えた気になってはいけない、ということです。 
(2015年12月13日松江での講演より)
ここはやっぱり「リベラル」、「シニアリベラル」かな?

シニアリベラルとは「空気を読んでいては空気は変わらないと気づいた若者の力を借りて、おかしなことにはおかしいと言える自由を保守したい60歳以上の男女」。
どんどん定義が長くなるので、このあたりでやめておこう。

SEALDsは「左翼」か? そうではなさそうだ。いのちをかけて言葉を選ぶ大澤茉実さんの「保守と革新」論考を再び見てみよう。
いま、運動に参加する若者が共有する内的衝動に、原発事故による価値観の転換(略)に加え、 今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。私は、その表面的な部分に抵抗感を持っていたわけだが、運動に飛び込んで、その保守性のなかには、同時に私たちの世代が持つ革新性が編み込まれていると感じるようになった。 
『SEALDsの周辺から~保守性のなかの革新性』(大澤茉実)

あるいは、春樹さんと一緒に御堂筋をデモしながら聞いたともかさんのスピーチに耳を傾けよう。
「これまで、適当にどこかに投票していれば、なんとなく社会は回ると思っていた選挙は、今、わたしにとって、私たちのいのちの尊厳に対する、根本的な価値観を問う選択となりました。個人を尊重しない政党に、これ以上この国のことを決めて欲しくはないんです。
いのちの価値を理解できない虚しい価値観の人々に、これから生まれくるこどもたちの、大切ないのちや未来を、預けるわけにはいきません。すぐに現状が良くなるわけではないし、次の選挙で何か革命的なことが起こるわけではないでしょう。しかし、観客席にいたわたしが、今こうやってデモの先頭に立っているように、社会は、少しずつ、しかし着実に変わってきています。それは、自分の与えられた現場に立ち、声を上げることをやめない、あなたがいたからです。この、地道な努力を、続けていきましょう」 
(2016年3月6日 安保法制の廃止を求める大阪デモ)
彼らは守ろうとしているのだ。明らかに。
「憲法まもれ!」「子供をまもれ!」「大人がまもれ!」


孤独に思考してみる


「自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動してください」
という奥田愛基さんのメッセージは、世代を超えた。

戦後派も60年安保世代も元全共闘も元ノンポリ学生も学者も政治家も社長もサラリーマンも小説家もミュージッシャンも百姓も、できることをできる場所でやっていくしかない。

そして、僕はどこまで行っても自分の文脈に基づいて思考し判断し行動するしかない。

極私文脈がどこまで普遍性を持つのかを試すために、この6年間、田中文脈研究所を主宰し、コンテキスター・フミメイとして活動してきたのかもしれない。

元三無主義しらけ世代の「あるもの探し」はまだ続いていくだろう。
だが、戦後100年まで動き続けることはできないだろう。たぶん。
続けることをあきらめてはいけない。終わったなら始めればいい。簡単なことだ。
何度でも言いつづけよう。「よし、もう一度!」と。
そして30年後、日本は100年間戦争をしなかった国になるだろう。
理想をかかげよう、未来のために。理想は現実になる。
俺たちはいつでも過去の理想のなかに生きている。
過去の人には生きられなかった生の継続を生きている。
そして僕らの生もまた未来の人に引き継がれるだろう。
1000年後も心配ない、
たぶんまた誰かが始めるから。 
SEALDs『民主主義ってこれだ!』(大月書店)最終メッセージ
SEALDsは過去の人には生きられなかった生の継続を生きている。
たとえば、特攻隊員たちの生を生きている。特攻機の「突入信号音」を傍受していた元予科練の加藤敦美さんの生を生きている。


SEALDsの生は確実に未来の人に受け継がれるだろう。

だが、リベラル長老組・フミメイの生は、それほど遠くまでは行けないかもしれない。
ならば、せめて、現時点でのステートメントを残しておこう。
私は半農半X研究所の主任研究員です。
半農半Xと相容れないものがみっつあります。
ひとつ、戦争。ふたつ、原発、みっつ、全体主義です。
戦争について。
昭和の十五年戦争では若者たちが召集され、国家によって命を奪われました。
「この鉄砲が牛蒡(ゴボウ)であったらナー」と故郷の妻子に手紙を送って中国大陸で戦死した21歳の父もいました。
戦争は半農半Xがよって立つ自然を破壊し、山川草木とともにある命の尊厳を犯すものです。ゆえに私は恒久の平和を念願します。
原発について。
「大地と人間が安定した関係を結んでいるところを里というのです」という言葉があります。美しかった村は放射性物質でその関係を壊されてしまいました。理不尽な仕打ちの後始末は誰にもできません。子供たちの未来に「核発電所」は不要です。
全体主義について。
Xは自分に与えられた社会的使命です。生物と同じく使命も多様です。ひとりひとりが個人としての尊厳を持ってXを追求していくものです。自分のXについて「一人一研究所」を立ち上げていくこと。それは「一億総」という全体主義的スローガンとは対極にある生き方です。
私は、半農半Xとは相容れないものを押しつけようとする勢力に対抗するため、声を上げ続けます。
2016年4月11日。田中文脈研究所コンテキスター・フミメイ。

 

ちょっとエモってみる


この文脈レポートを書くために、SEALDsの代表的スピーチを何度も見て聞いて読んだ。
(2016年3月28日 寺田ともか)
https://youtu.be/NLAePrFghhA
その人は、『社会は終わってる』と言った。
だけど、若い私は、私たちは、その終わってる社会でこれからも生きていかないといけないんです。このまま明日、戦争法が施行されようと、私たちはこの国でこの先何十年と生きていかないといけないんです。非正規で働きながら、奨学金を返しながら、子供を育てながら、親の介護をしながら、貰えるか分からない年金を払いながら、いつ起きるか分からない地震と原発事故の不安を抱えながら、私たちはこの国で生活をしていかなければならない。
絶望するには、まだ先が長すぎるから、もうちょっとマシな社会を作る為に、今日出来る事をしなきゃと思って、ここに来ました。無理だ、変わらない、終わってる、歴史は繰り返す、社会とはそういうものだ、そういう屍みたいな言葉たちの上を歩いて、私たちは新しい社会をしぶとく生きていきます。

(2015年10月25日 大澤茉実)
https://youtu.be/54CRQllcQEg 
だから、私はもう、絶望という当たり前に慣れてしまうことをやめました。(中略)
私は手触りと沈黙を大切にし、私の言葉で私を語り続けます。
それが、私にとって唯一のアイデンティティであり、私にとっての自由であり、私の反戦の誓いであり、ファシズムとすべての差別に対する私にできる最大の抵抗だからです。
そして、だれにもそれを打ち砕くことはできない。なぜなら、私の想像力も、私の言葉一つ一つの背景にある笑いや涙の経験も、だれにも侵すことはできないからです。私は、ほんの数年前まで、新聞の中だけにあった沖縄を、東北を、こんなにも近くに感じたことはなかった。
彼らの息遣いが、怒りの声が、今の私には聞こえます。そして、原爆ドームの前に立ち尽くすあの人を、杖を突いて国会前に足を運び続けるあの人を、弱音を吐けないまま死んでしまった大好きなあの子を、こんなにも近くに感じた夏はなかった。
こんなにも人のぬくもりを感じた夏はなかった。こんなにも自分が生きていることをかみしめた夏はなかった。私は、戦後70年を迎えるこの国に、世界中で銃声におびえる子供たちに明るい未来を見せる努力を求めます。
貧困大国であると同時に、自殺大国でもあるこの国に、安心して命を育める環境を求めます。政治家一人ひとりに、この国とこの世界に生きる人々の暮らしや夢や命に対する想像力を求めます。
私の言葉を理想論だとか、綺麗ごとやと笑う人がいるかもしれません。でも、希望も語れなくなったら、本当の終わりです。だから、私は明日からも路上に立ちながら、おおいに理想を語ります。夢を語ります。

読めば読むほど、僕はエモーショナルに偏っていく。
それもいいだろう。
シニアにはすり減ったエモーションを過敏にしていく義務がある。
老化した涙腺を鼓舞しつづける権利がある。
われわれはあ~!
あっ、左翼みたいになりそうだから、このあたりで。

それにしても、こいつらいい顔してるよな。


そして、僕より40年あとに生まれた先輩、奥田愛基さん、ありがとう!




(あとがき)
長い間、当研究所の文脈レポートを読んでいただき、ありがとうございます。
本稿をもって、しばらく更新を休みます。
『国つ神と半農半X』本編の執筆に集中するためです。
日々の思いはフェイスブックで発信を続けますので、よろしくお願いします。




2016年2月29日月曜日

不屈の笑顔2016

本日は2月29日。4年に一度しかない日である。
2012年、うるう年の同じ日に書いた文脈レポートがある。

『復興から見えるあなたの未来』

僕が初めて東北の被災地に入ったときのレポートだ。自分で自分を引用する。
2月17日から20日、はじめて被災地に入った。
遅いと言われたら、そうですね、と応えるしかない。311以来、多くの震災情報に接して自分なりのキュレーションをしてきた。
なのに、なかなか被災地に行く踏ん切りがつかなかった。
怖かったのだ、と思う。
行くと引き返すことができない。物理的に帰ってこれない、という意味ではなく心が帰ってこれない、と思っていたのだ。
しかしながら、フミメイと呼ばれ始めて一年以上が経ち、自分なりのアンガージュマン(社会的自己投機)を続けてきた今となって怖がってもしかたがない。
そもそも心の帰る場所ってどこだ?
地球上のどこにあっても僕の心は「ぼんやりした不安」の中で浮遊し続けるしかない。
踏ん切りをつけるなら今だ。
そして被災地に行くなら、やはり水谷孝次さんとともに行きたい。
MERRY SMILE ACTION in 東松島。2月19日。
この現場に行って水谷さんのお手伝いをすることに決めた。 
田中文脈研究所『復興から見えるあなたの未来』2012年2月29日記
もうすぐ、5年目の311が巡ってくる。その前に21年目の1月17日がやって来た。
阪神淡路大震災と僕との関わりは20年目に書いた。

『MERRY IN KOBE 2015~不屈の笑顔』

不屈の笑顔は神戸を忘れない。
水谷孝次さんとMERRY PROJECTは今年も神戸・新長田にやって来た。

MERRY IN KOBE 2016のニュースはメリープロジェクト公式サイトにアップされている。

神戸の希望を未来へ「はーい にっこり!」

その日に開催された「笑顔の同窓会」については、神戸新聞の今泉欣也記者の記事も読める。

神戸新聞「変わらぬ笑顔の同窓会」

僕は今年も、コンテキスターとして見て聞いて感じたことを文脈レポートしておこう。

2年続けて同じ現場に行くと、新長田の笑顔を支える人たちとも顔なじみになってくる。
六間道四丁目商店会の増井宏行さん。今年もお世話になりました。


増井さんは富士屋呉服店の店主だ。呉服屋というのは美学がなければできない、と水谷さんは言う。
増井さんはメリー傘をどうすれば美しく見せられるのかを素早く判断してくれる。商店街の天井からぶら下がる笑顔の傘、「はーい、にっこり」ダンスとマイケル・ジャクソンライブのステージ設営……増井さんの的確な動きには毎年、助けられている。

今年、僕が感動したのは、イベント前日に増井さんがつくった「メリーまとい」だった。現場では「団子三兄弟」という言葉が出ていた。
なんのこっちゃ? 僕は増井さんといっしょにホームセンターに行く。

手早く角材を選ぶ増井さん。3本のメリー傘を差し込む穴の位置を暗算して工作を指示する。超文系の僕には絶対、真似ができない。



増井さんは、夕暮れの中、穴の空いた角材を自転車に乗って運ぶ。長身の増井さんは、それだけで絵になる。



メリー史上初! メリーまといの完成だぜ!




「笑顔の傘はヨコのラインで見ることが多いので、タテのラインをつくってみたかった」と増井さんは笑った。
なるほど、メリーまといは空に向かって笑顔を伸ばした。


「新長田一帯が温かい気持ちで包まれ、今日からまた頑張るキッカケを、みなさんに与えて頂きました。」
冨士屋呉服店の店主は商店会を代表して、締めの挨拶をしてくれた。

とんでもない。こちらが元気をもらったのですよ。
マイケルwith アースデーのパフォーマンスを後ろの方で見ていた商店街のおばあさんがいた。彼女たちは店番をしながら、マイケル・ジャクソンのビートに乗っている。こういう人を見ると僕は元気になってお節介をしたくなる。


メリー傘を持ってもらった。


おばあさんは言う。「この写真、もらえるのですか?」
「はーい、増井さんに送りますよ~!」僕は即座に答える。

メリープロジェクトは、そこで生活を営んでいる人たちのものだ。ソーシャルデザインとはそういうことであろう。

そして、誰もがソーシャルメディアで繋がっているわけでもない。
紙焼き写真を郵便で送るというアナログコミュニケーションの大切さを教えてもらったのは、冒頭に引用した「MERRY SMILE ACTION in 東松島」だった。津波で写真を失った人にとって、自分の写真を手にすることはメリーなのだ。

写真を送ったら、増井宏行さんから手紙をいただいた。丁寧な手描きのものだ。
メリーインコウベでは大変お世話になりまして、誠にありがとうございました。お集まり下さる皆様の瞳が綺麗で、ご一緒させて頂ける事で心が洗われる思いです。決してお上手で云っておりません。写真、早速お届けし喜んで頂きました。私のまゆ毛の太さに家族大爆笑でした―

光栄です、増井さん。ボランティアスタッフを代表してこちらこそ御礼を申し上げます。



MERRY IN KOBE 2016 では「笑顔の同窓会」も開催されていた。
以下は、メリープロジェクト公式サイトに寄稿したものを再構成したものです。(敬称略)


はーい にっこり! 笑顔の同窓会  



今、僕の目の前には2冊の本がある。
『Merry in KOBE』(水谷孝次/神戸新聞総合出版センター/2002年6月28日発行)。
『はーい にっこり!』(メリープロジェクト/女子パウロ会/2015年5月1日発行)。


2016年1月17日、阪神・淡路大震災から21年目の神戸で、この2冊の本は笑顔のタイムラインを繋いだ。「笑顔の同窓会」が開催されたのだ。

始まりは、2001年夏。そして2002年、日韓共催のワールドカップの直前。
水谷孝次は被災地、神戸で市民たちの笑顔を撮影した。そして「あなたにとってメリーとは?」と問いかける。
集まった笑顔とメッセージは『Merry in KOBE』という写真集になった。

巻頭には、骨太だったジャーナリスト、筑紫哲也が神戸と笑顔へのメッセージを寄せている。
「逆境であればあるほど、それを明るく受け止め、笑顔で対するのは人間の知恵のはずである」
「あなたが笑う時、世界もいっしょに笑う」



MERRY PROJECTは水谷孝次の「(絶対的)メリー主義」に支えられている。

「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」
これは今世紀の始めから笑顔のプロジェクトを主宰している水谷のプリンシプルである。

フランスの哲学者アランが『幸福論』のなかで述べている言葉だ。
アランは、こうも言っている。
「もし不撓不屈のオプティミズムを原則中の原則として自らに課さないならば、すぐに最悪の悲観主義が現実のものとなってしまう」

自身が不屈の笑顔になって世界中の笑顔を撮りつづけてきた水谷のマジックワードが「はーい、にっこり!」である。
カメラを向けられた人たちは、水谷の「はーい、にっこり!」でメリーを開いていく。
中国でもインドネシアでもニューヨークでもケニアでも、さらには神戸でも東北でも……。

2012年2月18日東松島

そして今、『はーい にっこり!』は絵本となった。子供たちが覚えやすい唄とダンスもパッケージになって、メリープロジェクトの笑顔を盛り上げている。

大地震から21年目、撮影から15年目の神戸で笑顔が再会したのは、新長田の神戸桜珈琲。
店頭には「はーい にっこり」のディスプレイがあった。ここでは昨年末から絵本とCDをチャリティ販売している。


僕は「笑顔の同窓会」に立ち会った。
参加者には、『Merry in KOBE』に掲載された笑顔の写真が手渡された。それぞれの笑顔と対面する。
じっと見つめる、あの頃を。そして笑顔がはじける。水谷孝次がその中心にいる。


同窓会というものは長い時を経ても一瞬にして思い出を共有するものだ、と僕は思う。

大震災のそれは喜怒哀楽で綾なされていることだろう。だが、メリープロジェクトが同窓会を催すと、喜びだけが突出して参加者の笑顔が通底する。

自分の笑顔を追体験した人たちは、すぐに参加者同士で、その物語を共有していった。
もちろん母となった人もいる。

「いつまでも笑顔の似合うママになりたい」
ママのメッセージの横で子供が笑っていた。



被災のこと、復興の道筋のこと、未来のこと、様々なことを話しながらのランチタイム。

僕は『Merry in KOBE』に「Welcome to KOBE―Merry Projectの軌跡」を書いた神戸新聞・今泉記者の取材を聞く。彼にとっても同窓会なのだろう。
介護福祉士、幼稚園教諭、そして看護師。同窓会メンバーの選んだ道は方向性が似ていた。

神戸桜珈琲のメリーな計らいで、『はーい にっこり!』のキャラクター、メリーちゃんのパンケーキが登場する。ありがたくいただいて、鉄人広場に移動した。


水谷孝次がカメラを構える。「はーい、にっこり!」と声をかける。15年ぶりの笑顔の撮影会が始まったのだ。
とびきりの笑顔がカメラに納められていく、あの日と同じように。いや、昔とはちょっと違う。撮影を見つめる同窓会メンバーがいる。


そして、母の笑顔に共鳴する子供たちがいた。

僕は2011年以来、多くのメリープロジェクトに参加している。水谷の笑顔撮影会も何度か手伝っている。
それでも、このようにはしゃぐ子供たちの笑顔を見たのは初めてだった。若き日の母の笑顔を持ったのが、それほど嬉しかったのだろうか。


母、息子、娘、そして15年前の写真、四段構えの笑顔を水谷孝次の笑顔が引き出した。
その瞬間に立ち会えたことをメリーに思う。


1月17日は、午前6時のNHKニュースを見てから新長田に来た。

今年の1・17は追悼行事が半減したという。支えるスタッフの高齢化、減少も原因のひとつらしい。さらには「忘却とは忘れ去ることなり」が得意技の国民性とも関わっているのだろう。

21年前の今日、強制終了させられた6434篇の物語はまだ読まれることを望んでいる。僕はそう思う。

時々、思い出してくれる人の心のなかで続きが書かれることを願う登場人物もいるはずだ。死者と生者の関係性は現在進行形だろう。
その関係は戸惑いと混沌を伴うが、時が経つにつれて笑顔のオブラートに包まれた方がいい。

だって、泣いても笑っても21年なら笑った方がメリーだもの。

悲しみや諍いのあるところほど笑顔が必要だ。
水谷孝次の「(絶対的)メリー主義」とはそういうことである。



僕はメリープロジェクトに参加すると少し違った視線で写真を撮ることにしている。プロジェクトを支えるボランティアメンバーにカメラを向ける。

笑顔を支えるためには白鳥が水面下で足をかき続けるように「不断の努力」が必要なのだから。


笑顔の持つ絶対的な力を再確認した1日が終わった。

家に帰った僕のバックパックの中には付箋を貼った『Merry in KOBE』が入っていた。水谷が「笑顔の同窓会」のために持ち歩いていた本をなぜか僕が持って帰ったのだ。

同窓会メンバーの写真に丁寧に貼られた付箋。少し汚れてしまった表紙。


この本には水谷孝次の志と笑顔が詰まっている。
2016年1月17日の夜、僕は少し酔っぱらった……。


メリープロジェクト公式サイト『はーい にっこり!笑顔の同窓会』はここをクリックしてください。

4年に一度の2月29日も、もうすぐ終わる。次は東京オリンピックの年である。
2020年2月29日、僕は何を書くのだろうか……。