2010年7月29日木曜日

文脈日記(棚卸読書)

脱藩してから一月が経過しようとしている。文脈の研究は遅れがちだ。僕にはなにごとも形から入る癖がある。会社の形から自立の形への変更手続きは煩雑だ。しかもデジタルとクラウドの世界では使ってみたい道具が無限にある。面白い。でも道具たちと遊ぶのはいい加減にして、中身を充実していこう。

ということで、新しい文脈をカテゴリーに加えていく。

「棚卸読書」というのは、ツイッターで本のことをつぶやくときに自分で勝手につくったタグだ。重度の「活字中毒者」である僕はツイッターを読書メモ代わりに使うことがある。
「活字中毒者」、この言葉と出会ったのは1981年だ。「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」椎名誠、本の雑誌社。

今、手元にその本を置いて、このエントリーを書いている。もちろんリアルな紙の本だ。少し黄ばんでいる。初版本である。初版に価値観を持つ人はすでに絶滅危惧種だが。

このエントリーは活字中毒者の端くれとして、自分が読んだ本のことを文脈化していく最初のエントリーにしたい。

コンテキスターは、さまざまなジャンルの本を読む必要がある。一冊の本に出会ってその面白さに没頭するのもいいが、違うジャンルの本を同じコンテキストの中で読んでいくのも興味深い試みだ。
そう意味で、2冊の本のコンテキストを紹介してみたい。

この2冊は同時に購入している。その日のつぶやきを引用しておく。

【棚入読書】「iPAD VS.キンドル日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏」「楽しみを釣る 小西和人自伝」どちらもエンターブレインの本。これだけジャンルの違う本を同時に出すのも変な出版社だが、同時に買う僕も変なのだろうか。
1:32 PM Mar 26th webから

「棚入読書」というタグは、文字どおり本棚に入れたという意味だ。棚卸をするまで時間がかかったが、どちらの本も面白いし役に立った。

エンターブレインという出版社の中で、この2冊がどういう位置づけになっているのかは分からない。が、僕は生活者、この場合は活字中毒者の視線からコンテキストを考えていこう。

「電子書籍」と「釣り」、一見すると何の関係もなさそうに思える。両方に同じレベルの興味を持っている僕のような者はそれほど多くないだろう。

この2冊は、ジャーナリズムというコンテキストで繋がっている。

『iPad vs. キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』の著者、西田宗千佳さんは気鋭のITジャーナリストだ。

『小西和人自伝 楽しみを釣る-釣り人のためのニッポン釣り史伝』の著者、小西和人さんは、日本ではじめて、釣りジャーナリズムというものを確立した人だ。

今はジャーナリズムというものの定義は難しい。
コンシューマーがコンテンツを自由自在に発信する時代にあって、それらの情報に一定の基準値を提供する仕組み、とでも言えばいいのだろうか。

ITジャーナリストは情報大洪水で溺れる生活者にとって頼れる存在になる可能性がある。ネットの大海にはどんな情報でもストックされている。でも自分で闇雲に探すよりも一定の方向性で情報を解説した本を読む方が効率がいい。

ITジャーナリストの西田さんは、eBookへの長い道を分かりやすく説いてくれた。それは僕のマックでの電子辞書体験と重なった。またすべての活字中毒者が抱いている「重い本を持ち歩くことなく、いつでもどこでも本を読める」という夢へのプロセスも語ってくれている。本を自炊する、すなわち、自分で本を裁断してドキュメントスキャナーでデジタル化する行為のことは、この本で初めて知った。

その後も電子書籍に関する情報はフォローしているが、西田さんの解説本が僕のスタートラインになっている。

一方、釣りジャーナリストというのは少ない。釣り名人の技術ノウハウ本は世の中にあふれている。でも釣りの社会的で時事的な側面を語ってくれる人はあまりいない。

小西和人さんは、関西の釣り好きの間では有名人だった。ただし海釣りがメインの方で、僕のテリトリーである渓流と鮎の釣りはあまりやられなかったようだが。

『楽しみを釣る』は日本の海釣りに関して、エポックメイキングな本になるだろう。基本的にエゴイストである釣師をまとめていくのは大変なことだったと思う。1977年に兵庫県高砂市で敢行されたという「世界初の釣竿デモ」の光景は目に浮かぶ。

実は渓流釣りの世界にもバイブルはある。山本素石さんの「西日本の山釣」だ。1973年に釣りの友社から刊行されている。この本は技術論であり文化論であり地勢論でもある。山本素石さんはジャーナリストというよりも文学者に近い存在だったようだ。

ジャーナリズムというコンテキストで本を眺めていると、いろいろな発見が今後もありそうだ。最近、出版界のトレンドはやたらにノウハウ本とマニュアル本に偏っているようにも見える。ジャーナリズムと単なる解説の違いは、縦書きと横書きの違いくらいはあるので、しっかりと見極めていきたいと思う。

それにしても、最近、読書量が目に見えて減ってきている。脱藩をして車での移動が多くなったこと。飛行機に乗らなくなったこと。そしてツイッターのせいだ。これではいかん。

活字中毒者は「本が切れる」恐怖感から棚入行為はやめられない。最近はeBookの棚入まで始めてしまった。これで「自炊」を始めたら、中毒を癒すために棚卸をする時間がますますなくなってくる。

すべてはバランスの問題なのですよ、と自分に言い聞かせる日々が続きそうだ。

2010年7月19日月曜日

文脈日記(家族史)

どうもまだ脱藩生活のリズムが掴めない。自分のすべてを自分で律すること、すなわち《自律の自立》には時間が必要だ。他律生活はそれなりに楽だったのだ。

と弱音を吐いても仕方がない。僕はこの道を選んだのだから。時間がない、忙しいと今までと同じ言い訳をするのはやめよう。時間はあるのだ。使い方が下手なだけだ。

このブログも早く更新せねば、と気持ちばかりが焦る。他人の情報を発信するお手伝いはいやというほどやってきたのだが、自分の情報発信は難しい。判断基準が自分しかないからだ。世の中と自分との間合いを図るのに、もう少し時間が掛かりそうだ。

なにしろ駆け出しブロガーですので、多少のもたつきはご容赦ください。

そんなわけで、文脈研究所、文研の更新はぼちぼちとやっていきます。自分の中では文脈があふれていても、それを世の中にそのまま出したのでは単なるオーバーフローだ。

こういうときは、また原田ボブ先達に頼るしかない。

自分の内なる声の指示に従えばよろしい。

そのとおりだと思う。自分の中でざらつきを感じること、違和感を感じることはしない、これが《自立》の判断基準、その1なのだろう。

そんなことを考えつつも、早く文研のカテゴリー・エントリーはしていきたい。一部の皆様にお配りした僕のミッションシートには、コンテキスターとしてのカテゴリーを並べてある。そのカテゴリーを織りなす作業を始めたい。

そのカテゴリーのひとつに「家族史」がある。自分史ではない。そして自分の家族の特別化でもない。複数の家族が織りなすコンテキストの中で見えてくるものを文脈化してみたい。

ミトコンドリア・イブやルーシーにまで遡るつもりはない。しかし我々は「遠くから来て遠くまで行く」のはまちがいない。

「遠くまで行くんだ」という言葉がずっと気になっていた。1970年頃、とある雑誌のタイトルで見た覚えがあり、ずっと心の片隅に残っていた。この言葉に関して調べてみたのは、長男の結婚式でのスピーチを考えていたときだ。いわゆる「両家を代表しての挨拶」というやつですね。

複数のブログを参考にさせていただいているうちに、「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」という台詞が白戸三平「忍者武芸帳」ラストシーンにあったことを思い出した。ブログなど影も形もなかった昔に読んだことがある。影丸のラストメッセージだったのだ。

この言葉のオリジナルはイタリア共産党の創始者、パルミロ・トリアッティだそうだ。きっとファシズムに対抗した人なのであろう。この人の言霊が僕の中で生き続けていたのだ。

「遠くまで行くんだ」という言葉が持つセンチメンタリズムに共感した僕は結婚式のラスト・スピーチをこの言葉をモチーフにして組み立てた。ただし、政治的な文脈でこの言葉を使うのは嫌だったので、ジョン・レノンの「ビューティフル・ボーイ」をBGMにしてしゃべってみた。

以下、そのサマリーです。

彼らが出会った瞬間から、二人は私たちのボーイとガールであることを卒業しました。正直、少し、というか、かなり淋しい気持ちがしますが、彼らの前には新しい道ができました。それは、単に私たちの息子と娘が出会ったということだけにはとどまりません。彼ら二人は遠くから来ました。両家の家族は遠くからの道を歩んできました。それから、生まれてから今日まで、たくさんの人に支えられながら歩いてきた道があります。彼らが出会ったとき、それら別々の道がクロスして、その瞬間、新しい道ができました。私たちの息子と娘は、遠くから来て遠くまで行きます。

おかげさまでスピーチはうまくいった。でも、一回限りのスピーチで家族史は語れない。あたりまえだが。

遠くまで行くのは、息子と娘たちの自己責任だ。ただし遠くから来たことを記録しておくのは、僕の役割だ。家族史は、田中家と妻の親戚関係から始めたい。それは満州へと繋がっていく。

2010年7月12日月曜日

文脈日記《自立》

《自立》の準備を進めている。僕のATOKは「じりつ」と入力すると《》がでてくる。この記号を僕は勝手に自立括弧と呼んでいる。1970年前後に吉本隆明さんが好んで使っていた記号だ。今でも自立括弧の中に自立という文字を入れると一本、筋がとおった感じがする。

《自立》のはなむけに、さとなおがメッセージをくれた。さなメモ「ある先輩の早期退職の日に」。このブログを公開するにあたって、ありがたくリンクさせていただく。ありがとう。本当にありがとう。

吉本隆明さんと1970年前後のコンテキストは別のエントリーで書いてみたい、とまたひとつ宿題を積みあげる。今は脱藩後の《自立生活》のことだった。自立するためには設備投資と環境設定がいる。今までD社から貸与されていたものをすべて自前で揃える必要がある。当たり前だが。

設備投資は繋がるための機材整備が主である。まずはレッツノートF9。このエントリーを書いているマシーンだ。ウインドウズ7/64bit、COREi5、メモリー4GB。今までD社で使っていたXPマシーンとは段違いに早い。このレッツノートはWIMAX内蔵だ。都会ではかなり早く繋がる。UQ Step、2段階定額プランで380円~4980円。

それからガラケー。ガラパゴス・ケイタイと揶揄されても、この列島では必要なシーンがまだある。D社で使っていた番号をそのまま使えることになった。ただし、あまりに古いので機種変更する。アウトドア志向が強いため、防水仕様にする。当然、パケホーダイダブルにして390円~4410円。

本命はiPhone4。プレゼントしていただいたものだ。こちらはパケットし放題フラット。4410円。

さらにドコモのモバイルWi-Fiルータだ。都会だけだと上記で充分なのだが、この先の僕は森や山や島にいることが多くなる。繋がるためにはドコモ3G回線が必要だ。定額データスタンダード割で1000円~4410円。

これだけの通信環境設定をすれば怖いものはない。どこでも繋がる。怖いのは通信料金だ。皮算用では、それぞれの回線をうまく使い分けて定額制の最低ラインでとどめる計算だ。でもそれぞれの最高料金までいってしまったとしたら……ぞっとする。ちなみに18210円です。

《自立》って経費が掛かるんです。もちろん自宅の無線LAN環境に居続けたらコストカットはできる。ただ、それでは《自立》とは言えぬ。妻がいやな顔をするのは目に見えている。

D社を退職して10日あまり、2日間の鮎釣り以外はほとんど自分の部屋にこもっている。リアルな環境設定のために必死で部屋のお片付けもしている。本や雑誌を「自炊」してスペースを確保するために大型カッターとドキュメントスキャナーも購入した。まだ梱包されたままだけど。

そろそろ環境設定にも飽きてきた。箱物企画は面白くないし不毛だ。立派な建造物があっても中身がないこの国の行政を見習うのはいやだ。コンテナにはコンテンツを詰めて文脈化せねば。

と言いつつもまだやり残していることがふたつある。

今朝からコグレマサトさんの「EVERNOTE」マニュアル本を読んでいる。この箱は相当使い勝手がよさそうだ。

それからiPadである。世界中の知恵と道具にアクセスするための入り口としては最強のような気がする。2010年のホール・アース・カタログなのかもしれない。妻へ僕からのプレゼントとして購入を検討しておる、と妻に言ってみたら「どうせあんたが使うんでしょ」と答えが返ってきた。