2010年5月31日月曜日

脱藩まで30日(小豆島)

5月27日、正式に早期退職が承認された。会社が募集してそれに応募したものが拒否されるはずもない。だが、なんとなくほっとした。周りには「辞める」とカミングアウトしていたのが、人事情報として流れると実感が増す。うれしい実感だ。

承認と同時に退職への動きが加速する。退職金、健康保険その他もろもろが実務的に処理をされていく。会社を辞めるのって、けっこう忙しいことなんだ。

その忙しさとは別に、僕にはやるべきことがあった。小豆島だ。
小豆島には母方の実家がある。浜から2分。しかも畑も竹林もある。ついでに問題もある。

問題は母方の家に後継ぎがいなくて、この家には長い間、誰も住んでいないことだ。仏壇もお位牌もそのままになっている。久しぶりに家を空けると蜘蛛の巣だらけで、歩くこともできない。
しかもお墓は山の上にあって、ときどきお参りをしていただいている親戚に負担をかけている。

この家はアウトドア好きの僕には魅力的だ。海が近い。里山が近い。畑がある。僕の家の近辺は昔も今も何もない。飯を食う場所も車で20分近くかかる。もちろんコンビニなどあるはずもない。ただ、そのことは僕にとっては魅力的だ。
素朴な景観に好感が持てる。この季節は鶯が美しい声で鳴いている。

どうにかして、永住はともかく寝泊まりができるようにはしたい。そのためにはまずご先祖様のケアーをする必要があった。

お墓を山の上から海のそばに移動すること。仏壇を閉めてご位牌の整理をすること。僕はそのための仏事に手をつけた。ただし分からないことだらけである。

「ショーネ」を抜いて、移動してから再び「ショーネ」を入れる必要がある、と言われても即座には理解できない。「ショーネ」は性根で、近所のお寺さんを呼ぶ段取りと石屋の手配をすること、など親戚のおじさんの指導を受けて、なんとかその儀式を終了させた。

これでようやく次のステップに進むことができる。そのプロセスはまた書いていこう。

この次のエントリーからは小豆島新聞の「タケサン文化欄」に連載しているエッセーをまとめてアップします。

これらの記事は双葉要というペンネームで3カ月に一度ほど掲載されている。読んでいただければ、小豆島と讃岐への僕の思いがご理解していただけると思います。

2010年5月21日金曜日

脱藩まで40日(脱藩とは)

今日は少し視点を変えよう。
脱藩という言葉はもちろん「龍馬伝」の影響だ。NHKの大河ドラマというものは、記憶にある限りあまり真剣に見た覚えはない。
だが今年はちがう。たまたま龍馬だった。だが僕にとって、それは必然だったような気もする。

自分を取りまく状況とドラマの進行にシンクロニシティがあった。

3月28日「さらば土佐よ」の頃は早期退職の意思は固めたものの、優遇制度の案内がなかなか来ずに憂鬱だった。
龍馬は家を捨てて脱藩する。もちろん脱藩優遇制度など存在するわけはないが。
僕は本当に脱藩できるのだろうか。焦りがでていた。

4月4日「お尋ね者龍馬」の頃、まだ案内は来ない。土佐は窮屈ぜよ、と龍馬は言う。この会社もどんどん窮屈になるからね、と言う僕の真意を周りはどれだけ分かっていたのだろうか。

4月11日「ふたりの京」がオンエアーされたとき、僕はまったく気分が違っていた。4月9日に早期退職優遇の案内が来たのだ。少しロマンチックな気分になっていた僕に、この回はよく効いた。

今年の終わりに総集編を見ることがあれば、この三週に集中しよう。

孫正義さんほどではないが、僕にも坂本龍馬に対する思い入れはある。「竜馬がゆく」は何年か前に通読している。
それは司馬遼太郎に対する思い入れと言い換えた方が正解かもしれない。司馬さんは満州での陸軍体験が作家としての出発点になっているという。

満州は田中文脈研究所のテーマのひとつだ。僕の祖父と父は大連にいた。そして母の家族も中国沿岸部を転々としたあと敗戦は大連でむかえている。妻の家系は長春につながる。
このことは、またあらためて書くことにしよう。とにかく僕は昨年の9月に大連から長春までのセンチメンタル・ジャーニーを敢行した。

満州への道程のキックオフは龍馬の時代に始まっている。そのことを意識しつつ龍馬伝を見ると興味深いのだが、このエントリーのテーマは脱藩であった。

土佐藩というのはタテ型組織を極限まで突き詰めていたらしい。

タテから脱出しないとヨコには繋がることができない。

これは幕末であろうと世紀末であろうと永遠の真理だと思える。タテ社会でしか生きてきたことのない僕がヨコを語るなよ、と言われたらそれまでだが、それはこれからのトライアルだ。

とにかく脱藩しないことには始まらない、という僕の意識と龍馬伝が妙にシンクロした2010年であった。

2010年5月20日木曜日

脱藩まで41日(ひたすら話す)

脱藩するとカミングアウトしてからは、ひたすら仲間たちと話し続けた。

で、やめて何するの。

という問いに対しては「悠々自適」と答えればいいのだ、と気づいたのはある夜の宴席だ。ロケをよくしていた時代の仲間たちと昔話をしつつ、脱藩後にやりたいことを説明すると「そういうのが、ほんとの意味の悠々自適やねん」と教えてくれた人がいた。

正直なところ、僕は「悠々自適」という言葉が嫌いだった。なんだか爺くさいし世捨て人のようなイメージを持っていた。ところが、「自分に適した生き方をすることが自適の意味でしょ」と言われて、すとんと納得した。

そうなのだ。会社に適した生き方をするのがサラリーマンで、自分に適した生き方をするのが脱藩者だ。
自分に適した生き方を悠々としていくのが「悠々自適」だ。

早期退職すると言うと、当然のように転職とか次の会社とかを問われる。皆さん、心配そうな顔をしてくれる。
そんなとき、僕は意地になって自分のミッションを説明した。でも、僕のやりたいことは、まだ僕の頭の中にだけあることなので、他人に理解されるわけはない。

僕には理屈っぽいところがある。長くつきあっている仲間たちにはお見通しだろう。
でも、理屈は忘れて、脱藩までの日々は、素直に淡々と「ははは、おかげさまで、悠々自適ですわ」と言えばいいのだ、と決めたら気分が楽になってきた。

僕のミッションに関しては、別のエントリーにしよう。
もちろん「田中文脈研究所」もミッションなのだが、こうしてブログにまとめて時間をかけて読んでいただくしか、理解してもらう方法論はないのだ。

2010年5月19日水曜日

脱藩まで42日(ひたすら待つ)

背中を押された僕はひたすら待った。
役職定年と同時に実施されてきた早期退職優遇制度の案内を待っていた。

ずっといっしょにやってきたメンバーたちには、50%の確立で役職定年と同時にやめる、と宣言していた。50%の意味は優遇される可能性が半分だったからだ。

待っている間に、大手航空会社に38年勤めた友人が3月末で早期退職した。本当に嬉しそうだった。僕はうらやましい、と言うしかない。

メンバーたちとは僕がいなくなった後のことを話しあっていた。ありがたいことに、それぞれの落ち着き場所はいい感じで決定していく。

最近のD社は組織変更が多い。そのたびに、僕は僕のメンバーのことを考えて調整ごとを繰り返してきた。でも、僕自身に関することは待つ以外にはなかった。

すべてはD社の都合だ。今までは優遇されていても、僕の場合、優遇されなくても文句は言えない。でも、優遇されないのに早期退職する勇気はない。
この時期は正直、気が滅入っていた。家に帰っても、うっとうしい顔をしていた、と妻に指摘された。

そして、4月9日に案内がきた。優遇していただけるという。もちろん僕に迷いはない。心の整理はとっくについている。決断して宣言した。

「別に58歳で早期退職するのは、珍しいことではないのです。会社が優遇してくれると言って、それに答えた人は、今までにもたくさんいるのです」

と、東京の仲間たちにも説明をしに行く。言い訳する必要は何もないのだが、いっしょにやってきた仲間たちに説明責任はある。

で、やめて何をするの。その質問に対して回答をしていく日々が始まった。

2010年5月18日火曜日

脱藩まで43日(加速する)

D社を脱藩したら、ますます身体を動かしたいと思う。僕は28歳から釣りを始めた。49歳からゴルフを始めた。そのあたりのことは、別のエントリーで書こう。

ボブのブログは身体を動かしつづけている日記だった。もちろん其風という俳号でも分かるように俳句ブログでもあるのだが、僕にとっては同い年の人間が、どうしてこれだけ身体を動かせるのか、と言う方が興味深かった。ボブさん、ごめんなさい。

身体を動かすのが目的ではなく、彼の動きにはあるベクトルがあった。どうやら「半農半X」というキーワードにしたがって動いているらしい。半農=小さな農業をベースにしてX=自分の天職を実現していくという考え方のようだ。綾部に行って、田植え、草取り、米の収穫をやっているらしい。しかも自転車を駆って。

原田さんってボランティアをやっているんですよね。と、ついさきほど昼飯をいっしょに食べた後輩も言っていた。誤解を恐れずにいうと、ある種の余裕をもって、まあ適当に奉仕活動をする、というのがボランティアだと僕は思っていた。これは、なにかちがう。

奉仕活動というよりも、職業訓練というほうが近い感じがする。 しかもものすごく楽しそうだ。身体を精いっぱい使って、アウトドアしながらミッションを探している。

僕もアウトドアで身体を使いたい、これはうらやましい。

ずっとブログを読んでいると、ある段階から、彼は自分のことをミッション・サポーターだと言い始めた。

その頃、僕の脱藩計画も具体的にしなければならない時期に来ていた。会社に対しては何の義務もないのだが、自分の気持ちを整理するためと家族に伝えるためにミッション・シートを書いてみた。書いてみた以上は、客観的に判断してほしい。

僕は、ミッション・サポーターであるボブに連絡を取った。
彼の「ボランティア活動」に関する自分の見解を披露したうえで、ミッション・シートを見せた。

ボブは、僕の背中を押してくれた。僕の脱藩計画にはドライブがかかった。

2010年5月17日月曜日

脱藩まで44日(退職した人々)

原田其風は、3年前に、55歳でD社を早期退職した。同期の数少ない年少組なので、何を考えて会社をやめたのかがとても気になっていた。

もちろん、その他にも早期退職した同期はいた。スタークリエーターだったAさん、田舎で山仕事をしているBさん、D社の経験を生かして転職したCさん、大学にまた行っているというEさんなど、なんとなく消息は分かっていた。

ただ、原田基風はよく分からなかった。なので、彼がブログを立ち上げた時はすぐに読者になった。
以下、彼のことは、ハンドルネームのボブと呼ぶ。

ボブの軌跡はブログを読んでほしい。とにかく彼の動きは興味深かった。どうやら田んぼで遊んでいるらしい、世の中では「半農半X」というトレンドが流行っているんだ、などと今まで僕の知らなかった世界が展開されていた。

僕も知らなかったが、D社の皆さんがほとんど経験したことのない世界だったと思う。

毎日毎日、会社のPCとにらめっこしつつ、さまざまなトラブルの火消しをしていた僕には彼の住む世界がとてもうらやましいものに見えた。

僕は年の割には異様にITリテラシーが高いと思う。だが、PCやインターネットだけで生きているわけではなく、本質はアウトドアで身体を動かすのが大好きだ。

そのあたりのことは、また明日。

2010年5月16日日曜日

脱藩まで45日(背中押し)

D社の同期には、早期退職した者が多い。少なくとも7名はいる。その決断をした理由はさまざまであろう。なんども言うように、自分の人生だ。それぞれの指針があったはずだ。

そのうちに一人に、つい先日、「ようやく俺もやめる」と言ったことがある。「遅かったな」と言った彼に僕は反応した。

俺は、君ほど才能がなかったから。

スタークリエーターである彼は即座に答えた。
あほか、会社をやめるのに才能なんかいるか。いるのは思い切りだけや。

そうなのだ。

僕は思い切りが悪い人間だ。こうして脱藩の話しを書いていても、若干、まだ会社に気をつかっている。

どこまで書いていいのだろうか。誰か気を悪くしないだろうか、と。

ばかばかしい。会社をやめたとたんに、僕は一個人だ。逆に言えば会社が僕に気をつかってくれるはずがない。サラリーマンは単なる歯車だ。会社という組織は個人の思惑とは関係なく回り続ける慣性を持っている。

そのことはかなり自覚をしながら早期退職を考えていた。ただ、何度も言うように不安はある。

誰かに背中を後押ししてほしかった。押してもらうためには、自らアクションするしかない。

僕が背中を押してもらう相手に選んだのは、原田基風だった。

彼のことについては、また明日。

2010年5月15日土曜日

脱藩まで46日(同期年少組)

D社を脱藩するのは、衝動的なことではない。
かなり前から、58歳で退職しようという意思はあった。

この会社には役職定年制度というものがある。60歳まで待たずに、若いマネージャーのために道を譲る制度だ。そのタイミングで、早期退職の優遇をされることもある。

D社もご多分にもれず逆ピラミッド組織になっている。会社の新陳代謝のためにこの制度は悪くないと思う。

社員の方から見ても、58歳で会社人生と脱会社人生を熟考できる機会を与えられるのはありがたいことだ。そのチョイスは人それぞれで、もちろん、そのまま60歳まで勤める権利もある。少しばかり、待遇は違ってくるが。

ただ、これだけは言える。早期退職するかどうかの選択権は自分にあるのだ。長い会社人生の中で、最初で最後に人事の選択権が自分の方にくるのだ。これは快感ですよ。
60歳の本定年はノーチョイスですからね。

僕は同期の年少組で一番若い。退職した同期たちは僕にこう言う。

おまえは若いのだから、その特権を活かしてもっともっと働かないと損やで。
確かに若い。年長組とは3歳も差がある。
でも考えてほしい。同期ってことは、同じ年月、働いてきて同じように消耗しているのですよ。

3月13日生まれの僕は小さい頃からあまり得をした覚えはない。君の生涯年収は同期で一番多くなるんだぞ、と言われても困ってしまう。それが自分のアドバンテージだという気持ちにはなれなかった。

むしろ同期の中でどうして僕だけいつまでもタフなことをやっているのだろうか、という思いの方が強かった。

もちろんお金はほしい。でも36年間、フルに働いたらやめる権利を主張してもいいんじゃないか。という気持ちを抑えられなくなってきた。

誰でもいつかは親の死に目に会うし、いつかは会社をやめる日がくるのだ。親の死に目は天寿が決めることだが、会社をやめる日は自分で決めることができる。

その決断の基準にはそれぞれの家庭事情がある。僕の場合、二人の息子たちはもう大丈夫なようだし、家のローンも終わった。贅沢をしなければ、年金まで、なんとかやっていけそうな気がする。もちろん、長い間、サラリーマンをやっていると定期収入がなくなることは不安だ。とても不安だ。

でも、いまさら心配してもしかたがない。
入らなければ出ていくお金を抑えればよいのだ、と今は開きなおっている。なんとかなるさ。

生涯年収を競うよりもちがうレースに出場してみたい。チームの一員ではなく一個人として動いてみたい。その気持ちを、後押ししてくれたのが、僕より前に早期退職をした仲間たちだった。
そのあたりの事情は、また明日にしましょう。

2010年5月14日金曜日

脱藩まで47日(ことはじめ)

36年勤めた広告代理店のD社を脱藩することに決めた。6月30日には、ピラミッドから抜け出せる。昨日はもう退職の挨拶をした。というか、させられた。

個人の感覚よりも会社のスケジュールを優先させる組織というのは、いかがなものか。てなことをつぶやいても、もう意味はない。僕はタテ社会からヨコに拡がっていくのだから。

おかげさまで、もう会社に行く気はなくなった。D社には有給休暇の他に家族看護休暇、積立休暇なるものがある。それらを駆使すれば、6月30日まですべてを休んでもお釣りがくる。

喜んでアフターD社のネクスト・ステップのために準備をさせていただこう。

まずはアウトプットからだ。会社にいるときには、仕事以外のことはまともにアウトプットをしてこなかった。僕はようやく自由に発言できる。もとい、6月30日までは会社員です。会社員としての自覚をもってしゃべりましょう。

もちろんD社には、ブログで、あるいは書籍で自らの思いをアウトプットしている人たちはたくさんいる。もっと早くブログを立ち上げようと思えば、できたはずだ。
でもね。僕って、本当になまけ者なのですね。

仕事をしながら、仕事以外のことをアウトプットしていくというのは、かなりタフなことですよね。なまけ者で、しかも気が多いから、持続的にアウトプットするのをさぼってきた。 だって天気がいいと釣りに行きたいし、ゴルフに行きたいし。

お酒を飲むとすぐに酔うくせがあって、しかもスピーディに眠くなる。朝早く起きても、かなりの確立で二度寝してしまう。そんな僕が、本気でアウトプットを始めるので 、よろしければおつきあいください。このブログは7月になったら公開します。