2011年7月31日日曜日

文脈日記(自分のための百姓学)

ようやく箕面のアブラゼミが全開になってきた。
「蝉たちの沈黙」は本当に気持ち悪かった。
僕は昆虫学にも植物学にも詳しいわけではない。それでも生きものが毎年、繰り返していくルーティンは気になる。

鮎師としてのルーティンなら29年経験している。
解禁があって皮の柔らかい若鮎を味わって土用隠れがあって垢腐れがあって台風の大雨があって川が磨かれて入れ掛かりがあってスイカの匂いに包まれて、次第に腹ボテの鮎になって、竿納めをする。

ただ、この鮎たちのルーティンも今年は狂っている。
地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの地震の洗礼と災厄の塊、フクシマを抱えこんだポスト311の世界で、ルーティンを語ること自体に意味がないのかもしれないが。

天地有情、自然と生きものが狂っている。くり返しの美学が滅びようとしている。
そんな情況へのささやかな抵抗として、僕は、今、ニワカ百姓を目指している。

最初にお断りしておきたいが、「百姓」という言葉は差別語ではない。
百姓というのは生業としての「匠」や「商」をたくさん持っている誇り高い人たちのことだ。
この言葉をマスコミから追放した人たちは自らの中に農業者に対する差別意識を持っていたのだろう。

このあたりのことは骨太の農学者、宇根豊さんの著書からの受け売りだ。


 ただ僕自身にも「百姓」という言葉に関するほろ苦い経験はある。
脱藩して小豆島のフミメイ庵再生を始めた時、近くのおばさんに「会社やめて百姓やるんな」と言われた時、自分の心の中に小さなざわめきがあった。
まだマスコミ関係者の残滓が残っていたのだろう。

その頃の僕は、「自産自消」をスローガンにするマイファームという会社の畑を契約したばかりだった。畑仕事はするけど、それって百姓?という感覚があった。

今なら胸を張って、いや、本物のお百姓さんには相当、遠慮をしつつ、「ニワカ百姓です」
と言うことができる。

ニワカ百姓を名乗ることは、共同体と地域と農に関する理論武装、すなわちコンテキスト(文脈)つくりをしていく、という決意表明でもある。

ただし理論は実践を伴わないと空虚だ。
ささやかでも百姓体験をしてからでないと、農のコンテキストは語る資格がない。
釣りの世界では「ボウズ」という言葉がある。釣行した時、1尾も釣れないことだ。ボウズと1尾は別世界だ。いくらニワカといえども、1尾くらいは結果を出してから農を語るべきだろう。

ニワカ百姓、その1。マイファームの畑体験。

全国の不耕作地を借り上げて、都市住民に畑として貸し出す会社から15平方メートルの畑を箕面で契約した。
このマイファームのおかげで、僕は生まれてはじめての農体験をした。昨年の10月のことだ。

マイファームには各農園に管理人がいる。箕面の管理人は寒吉さんという筋金入りの百姓だ。僕は寒吉さんの指導の下でさまざまな野菜を作り続けている。「野菜は甘やかしたらあかん」という寒吉理論にしたがって、あまり手をかけずに、一応は収穫ができている。
基本的に放置したままでも育ってきたものだけを収穫して、昇天された野菜たちのことはあまり気にしないことにしている。

あたりまえのことだが、すべてはお天道さまの下での作業である。ニワカ百姓の畑にも雪は降ったし嵐も来る。天地は平等だ。筋金入りとニワカ百姓を差別したりしない。
ヌカカやブトもターゲットを差別しない。そういう意味では僕のようなものでもお天道さまは百姓だと認めてくれている気がする。

この畑で百姓をしていると都市住民の農への関心が高いことがよく分かる。散歩の途中のおじさんやおばさんが寄ってくる。
僕はニワカ百姓のくせに、ベテランのようなしたり顔で「野菜つくりの面白さ」を述べたりする。

野菜つくりの楽しさは循環を愛でることです。双葉がでていつのまにか、その野菜らしいカタチになってきて花が咲いて実がなってやがて根こそぎしてまたつぎの種や苗を植えて・・・15平方メートルの持続可能性などと。


ニワカ百姓、その2。半農半X研究所/塩見直紀さんの1000本プロジェクト。

僕たちは1年間でおよそ1000食のご飯を食べている。そしてお茶碗1杯のごはんは稲1本だ。ということは1000本の稲を植えれば1年分のお米がとれる。
というコンセプトで塩見さんが始めた無農薬手作りお米プロジェクトに僕も参画している。
この道の先達、ボブ基風に連れられて京都の綾部まで行っているのだ。
.5M×20Mの田んぼは、お百姓さんにはとても狭いと思われるが田んぼでハイハイしながら草取りをするニワカにはけっこう広い。


田植え、草取り、もちろんこれも生まれて初めての体験だ。
今まで概念としてとらえていた「田を渡る風の涼しさ」を身体で感じることができている。
久しぶりにカエルやバッタやゲンゴロウを見つめるまなざしも回復してきつつある。

この田んぼを塩見さんは「哲学の田んぼ」と称している。それはまた「縁脈の田んぼ」でもあった。今まで4回、この田んぼに行ったが、そのたびにボブ基風の縁脈を繋いでもらっている。別に約束をしているわけではないのだが、素敵な人たちに出会う。ボブの綾部におけるキャリア形成は相当なものだ。脱帽。
そして塩見さんの田んぼにもマイファームメンバーがいる。百姓道はお天道さまの下で通底している。

僕は鮎釣りスタイルで、この田んぼに入る。鮎タビ、鮎タイツ、ベストは自分のアウトドアライフの基本アイテムだ。
ニワカ百姓ならではの田の神を恐れぬ行為だったら、すみません。でもこれが、けっこう快適なのだ。

田んぼの作業は基本的に中腰である。これはけっこう辛い。ところが鮎釣りスタイルだと田んぼの中に膝をつける。稲穂が伸びてきてからの草取りは穂先が目をついてくる。そんなとき、発想を変えて、稲穂の下に潜りこんだら問題は解決する。小型犬なら稲の間にポジションをとれる。稲に頬ずりして抱きかかえながら草取りしているとバッタと目があったりする。これがけっこう楽しい。
素足で感じる泥の心地よさはないが、その代わり、手で充分に泥の感覚を味わえる。
そう、最終的にはたんぼでハイハイしながら草取りをするのが一番楽だった。
それにしても、「稲の根の肩を揉むようにしてマツバイをとるべし」というボブのアドバイスは深い。匠の言葉にまたも脱帽。


ニワカ百姓、その3。上山棚田団のお手伝い。

「愛だ!上山棚田団~限界集落なんて言わせない」でおなじみの上山棚田でのニワカ百姓は、残念ながらまだ経験不足だ。
本の校正をお手伝いしたように、百姓手伝いもしたいのだが体力の限界を感じて、いつも中途半端になっている。上山の皆さん、すみません。

僕は川の土嚢積み、水路掃除とほんの少しの草刈りしかしていない。
それでも上山での草刈り体験は、小豆島フミメイ庵の草刈りに大いに役立っている。
「草刈りもアートなんよ」というまなざしは身についてきた。まなざしだけで技術はまだまだだが。

この季節は、いろいろなところで草刈りをしているシーンに出会う。刈り払い機のエンジン音には敏感になって、鮎釣りをしていても、ついつい草刈り人にも見入ってしまう。
そして、川の入漁道の草が一定の方向に倒れていて、綺麗な紋様を描いていたりすると、おおここには手練れがいるな、と思わずにやりとする自分がいる。



 とここまで、自分のささやかなニワカ百姓実践を言い訳したうえで、最近、上山棚田でささやかれている「農を超える農」というお題に対するコンテキストを考えてみる。

以下の文脈は宇根豊さんの著書と講演にインスパイアされたものだ。
もちろん、農の超え方には様々な方法があるはずだ。上山のかっちは理屈ぬきでそれらを実践している。その現場自己主導主義に敬意を払いつつ、ひとつの理論武装として展開しておきたい。


超えられるべき農は近代化された農業である。工業の真似をしている農業である。金に換えられる直接的農生産物だけを評価する農業である。

それに対して超えた農は「情念と共感の農」である。お金にならない田んぼ周辺環境を評価する利他的農である。
いつものようにカエルが鳴くために、いつものようにトンボが飛ぶために、くり返しの美学を意識して人々を癒やしてくれる農である。
そうすることにより、先人たちの情念を持続していく農だ。

視座を変えて言うなら、「米一粒周辺価値」を最大化した農である。

価値を一粒の内部に求めて、糖度がどうのこうの、というのではなく、お米一粒を起点にして、その周りにまなざしを拡げていく農だ。

上山棚田米の一粒を結晶させるためには田んぼの水が必要だ。その水はミジンコ、オタマジャクシ、ゲンゴロウ、ホタル、バッタ、トンボ、クモなどの有情を育てる大きな価値を含んでいる。

棚田の水をキープするためには畦が必要だ。その畦の草刈りが美しい畦の花々という価値を生む。

棚田にその水を確保するためには水路が必要だ。先人たちの知恵と情念が入り交じった水路は、歴史的文化的価値の塊だ。さらには洪水防止という土木的価値も持っている。
その水路を持続していくという行為の価値はお金に換算すれば途方もないものになるだろう。

そして水路を含んだ上山棚田の景観と空気感は多くの人々を惹きつける磁力を持っている。多士済々の人財が集まってくる価値はいかほどのものだろうか。

こういうまなざしを持っていれば、「農を超える農」の価値はどんどん拡大していく。

「米」を生産するとき、「米一粒周辺価値」にまなざしを向けて、その情念と共感を拡大再生産していく志を持ち続けたら、この列島の農は超農力を発揮していくのでしょうね。

百笑的に言うならば、上山棚田米は「森羅万象をメリーにする」米になりつつある。
子供や大人たちだけでなく、カエルもバッタもトンボもクモも、雲も風も笑顔にするのが、「メリーライス」というものなのだろう。

僕は引き続き、「農を超える農」と「メリーライス」のコンテキスト=ストーリーを求めていくお手伝いをしていきたい。

そうすれば、僕は孫たちのために天地有情のルーティンを残せる百姓爺さんになれるだろうか。