2011年9月18日日曜日

後世への最大遺物


9月16日、一冊の本の初版が出た。
「後世への最大遺物・デンマルク国の話」内村鑑三。


岩波文庫の新装版だ。

半農半X研究所の塩見直紀さんのセミナーで必ず出てくる言葉がある。

我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か。

内村鑑三が33歳のときにした講演の言葉にインスパイアされて、塩見さんも33歳で会社を辞めて「半農半X」の伝道師になられた。

何度も塩見さんのセミナーを聞いて、この言葉は気になっていた。
が、内村鑑三の原典は読んだことがなかった。

たまたま今週、僕は札幌にいて北大=札幌農学校関連の観光もしていた。時計台、清華亭と回っていると、内村鑑三の表示をよく見た。彼は札幌農学校の第二期生だ。


そんなことがあって、昨日、ふるさと回帰フェア大阪で塩見さんのセミナーを聞いて、原典を読みたくなった。

そこで今日、紀伊國屋に行くとこの文庫が平積みされていた。
「新装版本日発売」というPOPとともに。

この種の情報縁脈炸裂時には即、アクションをするのが情報の善循環を呼び込むコツだと思う。

で、読みました。

明治という時代、坂の上の雲を目指した時代の人々の言葉は熱いですね。

前述の内村の言葉の後半をサマリーすれば、こうなる。

・・・何人にも遺し得る最大遺物・・・それは勇ましい高尚なる生涯である。

また、こんな美しい記述もある。

私に50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。

もし内村が311後に、この国の原発村がやっていることを見たら、どのような言葉を発するだろうか。

北海道の行政の発祥は、開拓使である。
彼らのシンボルマークは北極星だ。若き行政マンたちは胸に星を抱いていた。


善くも悪くも、ひたすら星の指し示す方向に邁進できた明治初期と比べて、今、この国のカタチは木っ端微塵ではないだろうか。



内村の講演は以下の言葉で締められている。

われわれに後世に遺すべきものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞと覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。 (拍手喝采)

僕も僕の人生を終わる時、ほんの少しでいいから拍手がもらえたら本望だ。


2011年9月11日日曜日

ふたつの11を悼む

今日は911だ。あれから10年。そして311から半年だ。

2001年9月11日、僕は出張で東京のホテルにいた。2機目の飛行機がツインタワーに突っ込む映像を見た直後、当時、テキサス州フォートワースに留学していた息子に電話をした。
何が起こっているのか分からなかった。
とにかく連絡をくれ、とメッセージをしたものの連絡がとれたのは翌日だった。

幸い、南部の片田舎では何事もなかった。
その後、エアライン・フリークで空港に飛行機の写真をよく撮りにいっていた息子はFBIの訪問を受けたらしいが。

2011年3月11日の午後、僕はある人の原稿の校正をしていた。集中するために音楽を聞きながら。
知人からの電話で事態を知った直後、当時、東京にいた息子に電話した。

そしてテレビとツイッターに張りついた。息子の嫁は妊娠していた。
ツイッター上では312の時点で、フクシマ・メルトダウンの情報が流れていた。その情報はデマを流すな、とマスコミに叩かれていたが。
僕は息子の嫁に東京からの疎開を勧めた。そして孫は無事に大阪で生まれた。

このノートの主旨は新しい命の誕生ではない。
失われた命を悼む話だ。


小説のラストシーンを読んで泣いたのは久しぶりだった。
文庫版は2011年5月10日に発刊されている。

「その人は誰を愛しましたか、誰に愛されましたか、何をして人に感謝されましたか」

これは、死というもののひとつひとつをないがしろにせず、ただひたすらに悼む人、坂築静人の物語だ。

小説家は911の直後に、この物語の着想を得たらしい。
そして311に遭遇して、こんなコメントを述べている。

 「悼む人」という小説で、事件や事故で亡くなった人が誰を愛し、誰に愛されていたかを聞く旅を続ける静人という青年を描きました。 
彼がここにいたら、あまりに多くの死者にぼうぜんとしながらも、被災地へ行き一人ひとりに話を聞いて回ったと思います。 
 被災した方が健康な生活を送る環境を整えることはすぐにも必要です。ただつらい思いをした人を根底から支えるのは、大切な人が失われたことを私たちが忘れていないという姿勢であり、喪失をわかちあう静かな連帯感だと思います。 
被災していない私たちこそが変わっていく必要があるのです。つらい思いをしてきた人が隣にいるかも知れないと思って接するような社会。今とは異なる社会のあり方が浮かんでくるはずです。 
 静人の旅を考えたのは9・11テロと報復の連鎖の中でした。悼む人がいてくれれば怒りが増幅されることはなくなり、絆が生まれると信じます。私も目をそらさず、災害のつらい現実を見続けていこうと思います。 
2011/5/9 asahi.comからの転載)

311で失われた人は、死亡15781人、行方不明4086人。(9月10日現在)
ここには2万人の悼まれる人がいる。

この事実を2万人の死者が出たというとらえ方をせずに、ひとりの人が死ぬという事件が2万件起こったのだ、という見方をすれば本質が見えてくる。
そう言ったのは北野武監督だっただろうか。

911では2973人の「誰かを愛し誰かに愛され感謝された」命が失われた。
イラク戦争の民間人犠牲者は10万人以上という説もある。

そしてこの列島では、毎年、3万人の人が自死している。

今日は、この星のすべての人が悼む人になるべき日なのかもしれない。

合掌。

2011年9月9日金曜日

文脈日記(ガリをキル)

ジブリのアニメ映画「コクリコ坂から」を見た。

始まって間もない時に「ガリをキル」という台詞が出てきた。
不覚にもすぐに意味を理解できなかった。
僕の中に出てきたイメージは寿司屋のガリだった。なぜ、このシーンで
生姜を切らなければならないのかと、虚をつかれた。
そして次の瞬間、理解してあの懐かしいロウの匂いとガリの手応えが蘇ってきた。

それから先はもう駄目だった。
何でもないシーンで涙が流れてくる。


 ラスト・オキュパイド・チルドレンはこの種の映画に極端に弱いのだ。

僕は1952年の3月生まれだ。日本はこの年の4月28日までアメリカの占領国だった。
僕たちは最後の占領された子供たちなのだ。

盟友ボブがLOC(Last Occupied Children)、ロックとネーミングしてくれたこのテーマは田中文脈研究所の重要な研究課題だ。
僕たちは世代というコンテキストからは逃れられない。

この映画は1963年が舞台だ。LOC、団塊世代からさらに遡った敗戦直後に生まれた世代たちが主人公になっている。

「ガリをキル」話は、この映画においてはサブアイテムだ。
だが、コンテキスターとしてはガリ版印刷の文脈から、この映画を語ってみたい。
 ガリは僕たちの素敵なマイクロ・メディアだった。
団塊とLOCたちなら、必ず接触しているはずだ。

ガリ版印刷は1894年に堀井新次郎という人がエジソンの発明を換骨奪胎してつくりあげたらしい。近代日本の土くさい発明品のひとつだ。
このあたりのことは、津野梅太郎「小さなメディアの必要/ガリ版の話」からの受け売りだ。
この本は理想書店で電子書籍が無料で手に入る。




ガリをキル、とはロウの原紙を鉄板の上において、その上から鉄筆でがりがりと文字を刻んでいく作業だ。
できあがったガリはローラーで根気よく一枚ずつ印刷していく。コピーマシンというものが存在しない時代ではガリは唯一無二の印刷物メディアだった。

少女は少年のためにガリをキル。
少年は少女のためにガリをローラーでこする。
ガリ版刷りのビラは二人の思いをのせて空に舞う。

ちょっと相当、恥ずかしい描写をしてしまったが、この時代のコミュニケーション・デザインはシンプルだった。

さらに僕の涙腺を刺激したのは、このガリをキル現場だった。
「コクリコ坂」の町にある高校。その高校のカルチェ・ラタンと呼ばれる古い校舎。
文化部の男子学生たちの魔窟であり、取り壊しの危機が迫っている。
ガリ版という小さなメディアは、この建物の中で粛々と生産されていた。


僕の高校にもカルチェ・ラタンはあった。
香川県立丸亀高校記念館。1968年、ぎしぎしと鳴る廊下の上には混沌があった。

海と俊の高校と同じく、丸高の記念館にも文化部の部室がひしめいていた。
新聞部があり文芸部がありESSがあり、生徒会があった。
そして、僕らの「赤い応援団」があった。


この田中文脈研究所を主宰してから1年2ヶ月になるが、この間、いちばんアクセスが多いのが「丸亀高校」というエントリーだ。

映画「コクリコ坂から」は、7年の世代差を乗り越えて、もろに僕の丸高時代とシンクロしている。

「カルチェ・ラタン」という言葉も、その文脈を繋いでいる。
1968年、「神田カルチェ・ラタン闘争」の興奮を田舎の高校生である僕は、東京に行った先輩からの手紙で読んでいた。
また丸高記念館も1959年には取り壊しの話が出ていたらしいが、先輩諸氏の努力で部室として存続したとか。ここも映画と同じストーリーだ。

今年の正月に僕は丸亀で同窓会に出席した。卒業して41年間で2度目の同窓会出席だった。

現在の丸高の校長は僕たちの同窓生だったらしい。
彼の計らいで卒業以来、はじめて丸高の校内に入った。校舎は建て直すらしいが、丸亀高校記念館は健在だった。
ばかものたちの夢の跡は国の登録文化財になっており、当時よりもこぎれいになって僕たちを迎えてくれた。

さすがにガリ版印刷の機材は見当たらなかったが。


今、僕は小豆島フミメイ庵の再生を図っている。
取り残された大量の荷物の中に、僕の高校生時代の遺物もあった。

そこには、1968年の丸亀高校生徒会や文芸部のガリ版印刷物が現存しているのですね。
はてさて、これらをどうしたものか。文脈家の悩みはつきない。

来週は丸高同窓会番外編@札幌、そして早稲田大学の先輩にして団塊世代の代表、ふるさと回帰支援センターの専務理事、高橋公さんと会う。

そろそろ僕の関係と信頼を巡る冒険にラスト・オキュパイド・チルドレンの文脈研究をプラスしていく時期が来たようだ。

時は今だ。