2012年2月29日水曜日

文脈日記(復興から見えるあなたの未来)

2月17日から20日、はじめて被災地に入った。
遅いと言われたら、そうですね、と応えるしかない。311以来、多くの震災情報に接して自分なりのキュレーションをしてきた。

なのに、なかなか被災地に行く踏ん切りがつかなかった。

怖かったのだ、と思う。
行くと引き返すことができない。物理的に帰ってこれない、という意味ではなく心が帰ってこれない、と思っていたのだ。
しかしながら、フミメイと呼ばれ始めて一年以上が経ち、自分なりのアンガージュマン(社会的自己投企)を続けてきた今となって怖がってもしかたがない。

そもそも心の帰る場所ってどこだ?

地球上のどこにあっても僕の心は「ぼんやりした不安」の中で浮遊し続けるしかない。

踏ん切りをつけるなら今だ。
そして被災地に行くなら、やはり水谷孝次さんとともに行きたい。

この現場に行って水谷さんのお手伝いをすることに決めた。

さらに踏ん切りに加速をつけてくれたことがある。
2月26日に「復興から見えるあなたの未来~愛の反対は無関心である」というイベントを協創LLPと信頼資本財団の共催で実施することが決定した。
そこでの現場報告をするためにも東北に行くべきだった。



まだまだ東北の被災地に行ったことがない人は多いだろう。
僕自身もこの時期になってから、わずか4日間の経験をしただけだ。
311から1年が経過した現時点では被災地に行くことが復興のすべてではないはずだ。
自分の現場で自分の未来を復興することが被災地の復興にもつながると思う。

この列島の復興現場では様々な出来事が渦巻いている。
人は「出来事多様性」の中で、それぞれの事情を抱えて生きている。
それぞれの日常性の中で想像力と創造力だけは失わずに「足が絡まっても踊り続ける」のが自分に何ができるかを復興する道のはずである。

これが「復興から見えるあなたの未来」全員参加討論会を経験した僕の実感だ。
参加者たちの未来を見るための意思を持続するために、今もfacebook上で討論は続いている。




そして僕は自分の志を持続させるためにも僕の被災地レポートを書きたいと思う。

そこに行く前にまず自分の立ち位置を明確にしようと決めた。
僕のそれはメリープロジェクトとマイファームだ。
まずは東松島の仮設住宅で笑顔の傘を開くお手伝いをすること。
それからマイファームの一員として西辻一真社長が志縁している「しあわせきいろプロジェクト」を見てくること。

2月17日、アプローチは仙台空港からだった。
レンタカーを借りて方向音痴の僕は右も東も分からないまま走り出す。

まずは閖上(ゆりあげ)に行きたかった。
昨年の3月13日にここで撮影されたガレキの前で膝を抱えて泣いている女性の写真が忘れられなかった。

仙台空港から海に向かって10分ほど走ると閖上港のそばには広大な更地が展開している。

ずっと映像や写真で被災地を見てきた。それはフレームで切り取られた世界だ。そのフレームを切った撮影者の意図の中で被災地を見てきたわけになる。
あるがままにフレームなしで目の前の光景を見る時、感じることは人それぞれだろう。

何もない。つまり片付いている。更地を見てそう感じる人もいていいはずだ。



何もない。つまり底なしの虚無がある。僕はそう感じた。


ただしこれは僕の視座だ。僕のフレームで切り取った光景だ。自分のまなざしを押し売りする気はまったくない。そもそもいちばん悲惨な光景を僕は見ていないのだから。





翌日は東京から来る水谷さんと東松島市野蒜(のびる)のかんぽの宿で待ち合わせをしていた。風光明媚のシンボルであったと思われる建物は青空と強風の中で喪失感を宿している。


東松島市は市街地の6割が浸水し、全壊4589棟。死者1042人、行方不明者112人。つまり1042話の物語が終了し、112話のストーリーが閉じようもなくなったということだ。

今回、水谷さんが東松島に来た目的のひとつは彼が笑顔を撮影した人々と再会することであった。一度だけの出会いではなく笑顔の持続性を求め続けること、それが水谷さんの凄味だ。


避難所であり遺体安置所でもあったという小野市民センターは時々雪が舞い、強風だった。
それでもミスターメリーがカメラを向けると少女たちははじけていく。


その後は根古地区の仮設住宅へ。自治会長の菅井さんご夫妻はたくさんの写真までも失いご自分の笑顔の写真が本当に嬉しそうだった。


2月19日、メリー東松島の本番。朝から続々と子供たちと被災した皆さんが集まってくる。笑顔の傘を持っていただき、水谷さんの「子供たちの笑顔は未来への希望です。みなさんの笑顔も未来への希望です」という呼びかけで、いっせいに笑顔の傘を開く。いつものメリーの始まりだ。


いつものメリーではなかった。僕は興奮していた。カメラを構えていても何を撮っているのか自分でよく分からなかった。

D社時代にもいろいろなロケを経験し、メリープロジェクトにも何度も参加している。
それでも今回のメリーは涙が出そうになった。

東松島が失ったものの大きさとそこに笑顔を届け続ける水谷さんのやさしさのせいだろう。


この写真の真ん中で手を振っている大友昭子さんは「根古仮設、サイコウ!笑顔、サイコウ!」と言っている。
仮設住宅にいる皆さんはご自分が見たものを語りたがっている。

大友さんは言う。

忘れられるのがいやだ。東松島にはメディアが来ない。私たちの話を聞いてほしい。鳥羽一郎も来てほしい。「津波なんか来たことねえだど」という耳の聞こえないじいさまを馬のように軽トラの荷台にほうりこんで逃げた。津波は黒い壁のようだった。浜市小学校の三階まで水が来た。小学校ででじいさまは腹へったあ、水のみてえ、おしっこだあ、戦争よりひでえ、と言った。戦争の時は家が残った。お金や薬を取りに帰った人は亡くなった。屋根に乗って流されている、てるおさんにおいでー、と言った。助けてけろーと答えたがそれきりだった。浜市小学校から鳴子温泉に行って20日ぶりにお風呂に入って涙がこぼれた。こんなに人にしてもらってよかった。自分は一度死んだ人間だから人生はこれからだ。


高橋和枝さんはメリーが終了しても笑顔の傘を渡してくれなかった。これは私が運ぶ、と言い張って重い傘を運んでくれた。

彼女の四畳半に上がり込んでチョコレートをもらいながら聞いたこと。

車のまま津波に呑み込まれた。重い大きな車なので底に沈んだ。上を見上げると船外機の船が通過していた。やがて車が浮上したが、渦に巻き込まれた。そのままプレハブに流れ着いた。どこかのおじさんが外から車の窓を丸太で割ってくれた。同乗していた90歳のじいさまと87歳のばあさまを先に押し出す時に手を深く切った。傷みはまったく感じなかった。プレハブにティッシュの箱があってティッシュで傷を押さえてサランラップで包んだ。そのプレハブには毛布や布団がたくさんあったので本当に助かった。



東松島は可憐なところなのですよ、と水谷さんは語り始めた。
確かに東の石巻、西の松島に挟まれて、あまり注目を浴びずにじっと我慢しているような雰囲気がある。
フミメイさんにはぜひ東松島をもっと見てほしい、というおすすめにしたがって二人で海の方に車を走らせる。

そこに浜市小学校があった。


まだガレキの匂いがする校舎の時計は14時50分で止まっていた。時を動かすのはこれからだ。時を動かすのは僕たちだ。僕たちが何をするかを小学校の熊と鹿が見ている。



浜市小学校の先には3000台の車が横たわる場所があった。



そこからさらに荒野を奥に入り、堤防を越えるとのどかな海がある。カレイを狙う釣り人が一人。

300におよぶご遺体が打ち寄せられたというこの浜で自然の時は確実に動いていた。


2月20日は仙台方面に戻って亘理(わたり)に入った。
ここも何もない。マイファーム西辻社長が菜の花の種80キロを蒔いた地点を探し続けるが分からない。ガレキの片付けに来ていた地元のおじさんに案内してもらっても分からない。

緑のかけらもない。ただトラクターの残骸があるだけだった。


元は豊かな農地であり、140軒の家が12メーターの津波で流された土地で何かを探して歩き続ける僕を地元のおじさんたちは「土地買い」と見ていたらしい。

僕にそんな甲斐性はないが、春になって黄色い花が一面に咲いたらマイファームの志を買いにまたここに来てみたい。
農をベースにした復興も未来を目に見えるカタチにしてくれるはずだ。

亘理町に心を残したままタイムアップで僕は仙台空港から大阪に帰ってきた。

その翌日、東松島根古仮設住宅の自治会長、菅井さんに紙焼き写真をお送りする。ご丁寧な御礼のお電話を頂戴した。

どうやら僕は東松島の根古に根っこをつくったようだ。



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