2012年9月30日日曜日

文脈日記(ハワイで「ニッポンの嘘」を考える)

そして今月も残り1日になった。
今年もあと3ヶ月だ。会社的に言うなら上期が終わった。
この文脈研究レポートは、細々と月末更新を続けている。
本音を言うと、月に一度でもこの種の文章を書くのはけっこうしんどい。

ときどき思う。僕は何のためにこんなに体力を使うことをしているのだろうかと。

ブログというものは「自分自身への応援演説」だと書いたことがある。
それは内田樹先生の受け売りだった。
でも自分自身のためだけに書くのであれば、自分が元気になれば書くのをやめればいいのだ。でも、どうやら文脈研究所の言葉たちは他人に読まれることを切望しているようだ。

自分が自分自身のためだけに書く言葉は自己幻想の迷宮の中で朽ち果てていく。
言葉は他人に届けてなんぼの世界だ。他人に届けた言葉で自分が救われる。

なぜなら人は関係性の中でしか生きられないのだから。
そして、その関係性は空間軸と時代軸を持っている。

ふたつの軸に沿って関係性を動かす原動力はやっぱり利他的欲求本能ですよね。

最近、こんな話をしながら信頼資本財団の熊野英ちゃん親分に京都でご馳走になった。
ベースが事業家である英ちゃんの言葉は深くて重い。
あんまり重いので、こちらは一杯ひっかけてバランスをとってしまったのです(笑w)。
英ちゃん、すみませんでした。



そんなわけで、当研究所も「届く言葉」をお届けしたく奮闘努力を続けている(つもりである)。

♪奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の日が落ちる~るるぷう~

と「男はつらいよ」の世界に逃げ込むのはまだ早い。情だけの言葉は即効性はあるが持続性がない。

言葉をロングレンジで届けるためには「情理」がいるのだ。

このあたりは文脈研究の大家であるところの内田先生からさらに受け売りをさせていただこう。



「街場の文体論」はクリエーティブ・ライティングに関する先生の最終講義だ。
この本はすごい。文章を書くという行為の本質を暗い地下室から白日の下に晒してくれている。
情理を尽くして語る。僕はこの「情理を尽くして」という態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に、言語における創造性の実質だと思うんです。創造というのは、「何か突拍子もなく新しいこと」を言葉で表現するということではありません。そんなふうに勘違いしている人がいるかもしれませんけれど、違います。言語における創造性は読み手に対する懇請の強度の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くことを願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。(P16)
これ以上、内田先生に寄り添うといつまでたっても本論に入れないので無理矢理サマリーしてしまおう。

「情理」すなわち「人情と道理」(大辞林)である。相手の気持ちを考えかつ筋道を立てて必死に届かせたいと願って書かれた言葉だけが思いがけない射程で言葉を届かせる。

当研究所の過去2回のエントリーは、「理」を求めていた。それは書く方も読む方もけっこうしんどい話だったと思う。

今月は「情」のまなざしにシフトして書いてみよう。

久しぶりにハワイに行った。しかも3世代家族で。
そしてすっかり「情」の世界に浸ってしまった。それはもちろん「家族の情愛」というものだ。

うちの嫁は311直後に東京から大阪に避難して箕面で子供を産んだ。長男は無事に関西で転職できた。それから1年、長男が企画したこの旅はたぶん「家族へのごほうび」だったのだろう。

うちの家族は幸せに暮らしています。ハワイの風は乾いていて気持ちよかったです。
以上、終わり、であればもう書くことはない。

けれど、ハワイはさまざまなストーリーを孕んでいるところなのだ。
その昔、やはりハワイ家族旅行をしたときに真珠湾に行ったことがある。レンタカーに息子たちを乗せてそこに向かっている途中、方向音痴の僕はすっかり迷ってしまった。

そのときに通りがかった小学生が声をかけてきた。彼は自転車を飛ばして自分の家まで戻りダッドを呼んできてくれた。ダッドはご親切にも僕たちをパール・ハーバーまで誘導してくれたのだ。

この話にはこれ以上の展開はない。息子たちも覚えているはずはない。でも僕の中ではこのメモリーはいつまでも残るだろう。ハワイを巡る物語の原点はパール・ハーバーにあるのだから。



いつのまにか、旅をするときにはその地を舞台にした本を持って行く習慣がついていた。
特に行きの飛行機の中で旅先関連の本に集中するのは快感だ。

その癖のバリエーションとして、ある夏の日に18時羽田発伊丹行きのJAL機内で「沈まぬ太陽」(山崎豊子)のクライマックスを読んだことがある。さすがにこれは悪趣味だな、と自分でも思った。

今回のハワイ旅行に持って行った本は「永遠のゼロ」(百田尚樹)だった。
たまたま書店回遊のときに見つけた文庫本で本棚の隅に積んであった。出発前の慌ただしさのなかで持って行く本を探しているときにふと目についたのだ。
タイトルの意味もよく分かっていなかったのだが、ぱらぱらとページをめくると真珠湾という活字が目に飛びこんできたのでバックパックに放りこんだ。



「ゼロ」というのは零戦のことだった。僕たちの世代ならプラモデルで親しんだあの海軍戦闘機のことだ。
この小説は真珠湾から沖縄までゼロ戦に乗ってアメリカと戦ったある男の物語である。超絶的な空戦技術を持ったその男、宮部久蔵は「死にたくない」という一心であの戦争を生き抜き、敗戦直前に特攻で散ったという。

「私には妻がいます。妻のために死にたくないのです。自分にとって、命は何よりも大事です」

と最前線で語る久蔵の物語をサマリーするのはやめよう。評論とちがって小説をサマリーする意味はない。そんな行為は著者、さらには読者に対する冒涜だ。

ただ、これからこの小説を読む皆さんのためにひとつだけおせっかいをしておこう。

宮部久蔵というネーミングは「七人の侍」に出てきた寡黙な武士、久蔵へのオマージュだと思う。
ちなみに久蔵を演じた役者は宮口精二でしたね。

僕はあの久蔵のイメージを零戦の操縦席に置いて、この小説を読み切った。

読み切ったのはいいのだけど、とても困ったことがある。

泣けてきて仕方がなかったことだ。なにしろ家族旅行なのですよ。その最中にこんな小説を読んだものだから涙を隠すのに苦労した。

ラストのシークエンスは帰国便を待つホノルル空港で読んでいた。
真珠湾はすぐそばだ。飛行機が出発して、しばらくしたらラストシーンが来た。

なぜ、あれだけ死を避け生にこだわった宮部久蔵が特攻で死んだのか。それは読んでのお楽しみだが、僕は号泣するのを懸命に歯を喰いしばってこらえた。が、ダメだった。目から涙がとめどなく溢れた。(P588)

児玉清が解説に書いているとおりの現象が機内に出現した。

家族という関係性を満喫するための旅行中にそんな本を読む僕が悪いのだが、ハワイにいる僕という人間は太平洋という空間軸と太平洋戦争という時代軸から逃れることはできないのだ。

「沈まぬ太陽」で描かれているJAL123便の墜落事故は1985年だ。わずか27年前の話だが、この事実も忘れ去られようとしているのかもしれない。
そうであれば、67年前の戦争のことを時代軸に据えるなどナンセンスだと言いたい人は言えばよろしい。

それでも僕は「関係性の文脈」にこだわりたい。

ハワイの夕日を見るときはこの太平洋でかつて起きたことへの想像力を失いたくない。
そして、その対岸にある愚かしいが愛おしい列島のことを考えざるを得ない。



もちろん、旅の間中、ずっとそんなことばかり考えていたわけではないのですがね。
単なるじじばかである時間の方が長かったのですがね。

可愛い孫を見ていると可愛すぎて不安になってくる、という複雑な心境がコンテキスターにはあるものですから。
20年後にこの子の目線の先にはどんな関係性が見えてくるのか、などと。


「永遠のゼロ」は国家よりも家族の関係性を優先した勇敢な男のフィクションだった。

この小説を読む前に僕は「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳」というノンフィクション映画を見ていた。

突然、話題を変えてすみません。
でも、この家族よりも国家と対峙することを優先した男のノンフィクションも、僕の中では今月の文脈が繋がっているのですよ。

僕はハワイには何度も行っている。その回数の中にはCM撮影のためのものもある。
僕が広告映像に関わっていた同じ時代に、ここまで反権力を貫いていた写真家がいたのだ。



福島菊次郎、1921年3月15日生まれ。現在、91歳。
「ニッポンの嘘」を表に叩き出すためにカメラと同化した指でシャッターを切り続けた男。

ヒロシマから始まるニッポンの「嘘つき文脈」をフレームの中に定着し続けるために菊次郎は、その体重37キロの身体をまだ動かしている。

311直後に彼は南相馬に行った。
あの虚実の境目、原発20キロバリケードで執拗にシャッターを押す。
警官に「僕たちは写真を撮るのが仕事だからごめんね」と柔和な顔で語りかけた直後、その鬼神の指は電光石火のシャッターを押す。

被災地の首なし地蔵を撮影した直後に痩身が風に吹き飛ばされそうになっても菊次郎のぶっとい意思は挫けない。

1942年の真珠湾から始まって1945年のヒロシマに至り、太平洋を挟む状況の中で育まれた数々の嘘がフクシマに繋がったことを直感し、放射線障害のリアリティを見てきた写真家はまだまだ嘘への追求をやめようとしない。

映画も小説と同じくサマリーすることに意味はない。自分の目で見て、自分の関係性の文脈の中でその映像との間合いを取ればいいのだ。



僕は「ニッポンの嘘」を見ている間、妙な既視感にとらわれていた。
もちろん、全共闘の映像などはある程度、実体験と重なっている。

そうではなくて、主人公の風貌に既視感があったのだ。

菊次郎の風貌はCMプランナー時代に何度も何度もいっしょに仕事をした映像監督の原徹郎さんによく似ている。

もちろんハワイでも原さんといっしょにCM撮影したことがある。いっしょにトローリングをして釣ったカツオを刺身にしてもらったこともある。

いや、そんなことよりも何よりも原さんは僕の表現作法のメンターなのだ。

僕のワープロはごく初期の頃から〈はら〉と打つと〈表現〉と変換される仕様にしてある。
原さんからは本当にいろいろなことを教わった。
今、僕が曲がりなりにも世の中の事象に対して偉そうなことを言っていることはメンターからの受け売りが多い。
僕が永遠の左翼青年みたいなものになったのも原さんの影響が大である。

原徹郎氏は1940年生まれ。僕よりも一回り上の辰年ドラゴンだ。
彼は5歳の時にナガサキの郊外でピカの光を見たと言っている。

「ニッポンの嘘」を自分の関係性の中で見た僕はさっそく原さんにメールした。
ぜひ、ぜひ師匠にこの映画を見てほしいと。

わがメンターは見てくれた。そして以下の感想を送ってくれた。

観ました。
なんともったいない!どうしてこの作品をTVでやらないんだろう、というのが最初の感想です。ウィークエンド、午後の観客がたったの27人(新宿)!もしTVでオンエアーされたら、映画館に足を運ぶだろう数百倍の人たちがこの作品に目をこらし、ニッポンの嘘を実感することができたでしょうに・・・・。
意味化された映像、言語化可能な視点と内容、すべてが、まさにTVメディアにぴったりの世界だと思いました。この作品が「映画」でなければならなかったことこそ、「ニッポンの嘘」の縮図ではないのか?
こんなもん、TVでやれるわけないじゃないかという思いは、もちろんあります。そのくらいはね、歳もとりましたし・・・。ただ「そのくらいはね」という、ためいきまじりの詠嘆を裏返せば、その思いこそ、自己規制の賜物であり、その自己規制は、ニッポンの嘘を主導したニッポンのマスメディア自身が構築したものだということなんでしょうね。その点については、菊次郎さんなんか、はなっからあきらめきっていますもんね。
この作品がイギリスの国営放送BBCや、フランスのTV局や中国や韓国のTV局に買われてオンエアーされ、受賞でもするといいですね。そか中国はやらないか。菊次郎さんみたいな人がいたら、それこそこまるクニみたいですから・・・。
ご案内、ありがとうございました。
はらてつろう
彼の写真作品のいくつかは若いころに見てスゲーと思ったことがありました。


「ニッポンの嘘」という映画に関して、これ以上、的確な評論はないだろう。
僕がつけ加えることがあるはずもない。

ただひとつだけ。
この映画を見たときもぼろぼろ泣いてしまった。
菊次郎がピカの被災者中村杉松さんの墓に報告する。
ごめんね、ごめんね、と。
仇が取れなかった悔しさを報告する。

「情」に流されやすい僕は、そらあ泣けるわな。



ハワイに行く前に「ニッポンの嘘」を見て、ハワイで家族旅行の幸福感にほんわか浸りつつ「永遠のゼロ」を読んで、ひたすら「情」にシフトした日々の九月だった。

相手の気持ちを考える意味の「情」よりも自分の感情に流される「情」に偏ってしまったこのエントリーに付き合ってくださり、ありがとうございました。

「言葉を届けたい」という偏愛はあるのだが、まだまだ片思いの部分が多いようで、すみません。

地にしっかり足を拡げて天日を思う存分に浴びる「ハゼ干し」のような「情理」をいつかは身につけたいものだ。
そして、みっしりと中身の詰まった味わい深い成果物を届けることができる者に自分はなりたい。

などと、上山の稲刈り写真を見ながら青年のようなことを思ってしまおう。

だって、福島菊次郎91歳、原徹郎72歳、まだまだ僕など若造なのですよ。