2013年7月29日月曜日

文脈日記(高度成長を観察する)

暑中お見舞いの言葉は「おあつうございます」のはずだが、なんだかお寒い感が否めない毎日が続く。
それはまあ、僕の偏見と主観であり、日本列島の民意は安倍晋三政権を選んだのだから、選挙の結果は厳粛に受けとめるべきなのでしょうね。
などと柄にもなく素直なことが言えるのは、とある映画を見てすかっとしているからだ。
「すかっとさわやか、コカコーラ」
あれ、このコピーもすでに死語だったのかな。最近、物忘れが激しいのだが。

想田和弘監督の「選挙2」、観察映画の第5弾だそうだ。



この映画を見て、すかっとするという感想も持つのもいかがなものか、という批判はどうぞお好きなように。僕は笑ってほろっときたのだから、すかっとしたというのが一番適切な感想だ。

ドキュメンタリーを見てこういう感想を言うと、「選挙2」はマイケル・ムーアの「華氏911」みたいに時の権力者を徹底的に批判して風刺した映画なのか、と想像される方もいるかもしれない。

悪代官じいみんを正義の素浪人やまさんが撃つ、なんてね。
そんなつまらん映画だったら、すかっとするはずがない。

想田監督のやり口は、マイケル・ムーアとは真逆だ、とだけ言っておこう。
あとは、ご自分で映画を見て感じるところがあれば、また教えてください。

あらゆる映像の基本はホームビデオである、というのが僕が敬愛している映像作家のテーゼである。長い間、彼の映像論に影響を受けてきた僕は、想田監督の「観察映画」を見て、その主張は正しいことを確信した。

ドキュメンタリーの本質を「観察映画」と言うならば、文脈研究の本質も「観察文」にあるのかもしれない。そして、今月は「歴史観察」にフォーカスをしてみたい気分だ。

歴史と言っても「国津神」と「天津神」の対立まで遡る気はない。それはそれで、松江と出雲に縁脈が深い僕にとっては大切なテーマなのだが、まだ手にあまる。

しつこいようですが、僕は1952年、昭和27年生まれのラスト・オキュパイド・チルドレンです。昭和の自分史を観察すると、そこには大きなコンテキストがあることに気づく。

「高度成長」というものだ。
「高度成長」という言葉は聞き慣れているが、そういうものこそ詳細に観察していくと見えてくるものがあるはずだ。

「高度成長」観察の手引き書として、僕は保坂正康『高度成長-昭和が燃えたもう一つの戦争』を選んだ。

1960年(昭和35年)から1974年(昭和49年)までの14年間を「高度成長」と位置づけて保坂は詳細な分析をしている。
高度成長胎動期:1960年から東京オリンピック(1964年)まで。
高度成長躍動期:東京オリンピックから大阪万国博(1970年)まで。
高度成長終焉期:大阪万国博から石油危機の翌年まで(1974年)まで。

この14年間で僕は8歳から22歳になっている。
8歳の時、僕はとある出来事に遭遇して今なお影響を受けている。22歳といえば電通に入社した年だ。

自分の人生のエポックメーキングな期間が、みごとに「高度成長」と重なっているのを発見して愕然とする。そうだったのか、僕の人生の背景、文脈、すなわちコンテキストは「高度成長」そのものだったのだ。

であるなら、コンテキスターとしては自分がアンガージュマンしている情況を、「高度成長」文脈で観察していく必要があるだろう。また、自分史を「高度成長」を視座にして見直すこともやってみたい。

アンガージュマンとは「自己主導的社会参加」という意味で僕は使っている。
20歳の頃に聞いた言葉がずっと心の底に引っかかっていて、脱藩した頃のキーワードだった。
そして、311後は、ものすごく意識するようになった言葉である。


8歳の記憶。「あんぽはんたい」「しょとくばいぞう」「わたしはうそはもうしません」。
61歳の今に至るまで、僕は政治的な人間であったことはないが、この年は小学校3年生でも、こんな言葉をつぶやきながら遊んでいたのだ。

今の自分が8歳の頃の自分を観察してみる。
ビニールくさい月光仮面のお面をかぶって、白いシーツを背中にかけて訳も分からず「あんぽはんたい」と言っている。その手にはB29のプラモデルがある。
祖母がその銀色の飛行機を見て「うらみ、はてなし」と言う。少年はきょとんとしている。

こんなことを延々と書き連ねるのが、このエントリーの主旨ではなかった。
「高度成長」を観察するときに、ひとつの軸を入れてみて、今、自分が考えていることを文脈化していくこと。

その軸は「高度成長とアスベスト」だ。
僕は今、「尼崎アスベスト訴訟」を支援しようとしている。僕にできる支援のカタチはテキストを書き連ねて、その本質を明らかにすることだ。

change.orgで原告、山内康民さんが訴えていることの背景を「事実の積み重ね」として客観的に書きだしてみたら、見えてくるものがあるはずだ。
そして「事実」を編集して「観察文」にしてみたい。この場合の編集とは「事実」と「事実」を繋ぎあわせて、その文脈を顕在化させることだ。
原告、山内康民さんの父、山内孝二郎さんは1996年に中皮腫で死亡。
康民さんの妹、前多康代さんは僕と誕生日が1日ちがいであり、NPO英田上山棚田団の仲間だ。

原告、保井安雄さんの妻であり、保井祥子さんの母である保井綾子さんは2007年に中皮腫で死亡。

2005年クボタショック。
クボタの元従業員79人がアスベスト関連疾患で死亡と新聞報道。
その後、「道義的責任」による「救済金」支払い開始。クボタは「法的責任」は認めず。
また「救済金」を受け取れば裁判を起こすことはできない。

2007年、加害企業クボタと国の責任を問う尼崎アスベスト訴訟、神戸地裁に提訴。
原告は山内康民、保井安雄、保井祥子。

2012年8月7日、判決。勝訴。
山内さんのケースは全国ではじめてアスベスト公害の企業責任を認めた。
ただし問題点あり。
もうひとりの原告、保井さんの請求は居住地が1キロを超えていたとして認めず。
また、国の責任は「周辺住民の中皮腫リスクが高いという医学的知見」は確立していなかったとして認めず。

2012年8月20日、大阪高裁に控訴。
2013年末に判決の予定。

以上がこの訴訟のタイムラインだ。
続けて、クボタの事実と「高度成長」を繋いでみる。

1954年、尼崎市の旧神崎川工場で青石綿を使って石綿水道管の製造開始。
青石綿は中皮腫発生リスクが白石綿の500倍。
1960年、高度成長の始まりの年、日本のアスベスト消費量の約1割がクボタ旧神崎川工場で使われた。

1964年、東京オリンピックの年、アメリカへ石綿管を輸出。
1971年、大阪万国博の翌年、青石綿の使用量を減少させて白石綿を使った住宅用建材の製造開始。
この年、福島第一原発の1号機が運転開始。
1972年、高度成長が終わる2年前、石綿建材の生産を急増。
結果、クボタは1954年から1995年まで尼崎の町にアスベストをまき散らした。

アスベストの真実。
石綿は熱や火に強く、腐食しにくく、加工もしやすい。そして安価であった。
石綿は極めて微細な天然鉱物である。微細ゆえに風に乗って飛んでいき体内に取り込まれやすい。いったん取り込まれると劣化せず半永久的に体内にとどまる。
体内にとどまった石綿は、絶え間なく細胞を刺激し続け、やがて中皮腫、肺がん、石綿肺などの石綿疾患を発症させ、死に至らせる。
その潜伏期間は20年から50年。

尼崎アスベスト疾患の未来。
環境省が用いたアスベスト疾患の推計をあてはめると、2033年までに1400人の中皮腫患者と1400人の肺がん患者が発生する可能性がある。
そして、中皮腫患者は約1年という短期間で亡くなる可能性がある。

どうも「編集」するまでもなく、事実は単純明快なようだ。
さらに日本国の動きを観察してみると……。

1952年、簡易水道政策開始。簡易水道には石綿水道管を奨励。
1967年、公害対策基本法成立。
1968年9月、水俣病を「公害病」認定。
1970年、改正建築基準法で住宅の火気に関連するところにも不燃材料を用いるべし、と規定。建築基準法では当初から石綿スレートを「不燃材料」として認めていた。
1971年、富山のイタイイタイ病裁判、新潟水俣病裁判、四日市公害裁判で企業の責任を認める判決がでた。
1989年、石綿粉塵が規制対象になった。
※参考文献:尼崎アスベスト訴訟(環境型)原告側弁護団最終弁論他
「アスベストを世界の公害史に残したい、国とクボタは歴史の批判を受けてほしい」というのが原告、山内さんの願いのひとつである。
アスベストは取り残されている、という文脈が事実の観察から見えてこないだろうか。
しかも現在進行形であるにもかかわらず、である。

さらにアスベストは尼崎だけの問題ではない。
作家、藤本義一は2012年10月に中皮腫で亡くなった。阪神大震災後の復興支援活動が原因だと言われている。
2013年6月、イタリアではアスベスト被害で2千人の死亡が認定され、企業の経営者に禁錮18年、賠償金65億円のトリノ高等裁判所判決が出ている。



アスベストの文脈は空間軸と時間軸が交差しつつ、さまざまな問題をはらんでいるのは間違いない。

僕としては、そこに自分軸を重ね合わせると何が見えてくるのかを試行錯誤している。
観察の中でも「参与観察」というのは、そういうことなのだ。

「参与観察」という魅力的な言葉は、想田和弘さんの『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』からの受け売りだ。

したがって、観察映画の「観察」は、必ず「参与観察」という意味になる。参与観察とは、文化人類学や宗教学などで使われる用語で「観察者も参加している世界を、観察者の存在も含めて観察する」ということである。要するに観察映画では必ず、作り手である僕自身を含めた観察になるわけである。(P171) 

1964年、12歳の僕を観察してみる。
香川県坂出市の中学校。友達といっしょに机を跳馬のように並べかえてどたばたしている。床に音が響く。怖い先生に怒鳴り込まれる。おまえら、なにしょんな?!ウルトラCしよります、とぼくたち。小さな声でしょぼんとしながら。

そして、その瞬間にもクボタは尼崎で青石綿の粉塵をまきちらしていた。それはダイアモンドダストのようにキラキラしていた、と観察した人もいる。

東京オリンピックの開会式の2ヶ月前にはトンキン湾事件でベトナム戦争が開始していた。

そして、オリンピックが終わった直後に佐藤栄作政権が発足した。
今も活躍する俳優、佐藤B作がA作に対抗した芸名であることも歴史の闇に忘れられているだろう。まっ、忘れられても問題はないですがね。

「参与観察」は自分を見ること。自分を見て世の中との関係性を見直すこと。
と勝手に文脈を拡げておこう。

脱藩以来、「世の中のために働く」と妄想を宣言して前のめりに動いてきたが、なんだか一段落感が漂うのは先月のエントリーで書いた。
だが、すぅーと自分の存在を消してしまう観察者になれるのは、まだ先の話のようだ。

最近、綾部里山交流大学と京都カラスマ大学が共同主催した情報発信に関する研究会に参加した。
そこで講師の印象的な発言があった。

ソーシャルなことに関わるのは「おせっかい」な人です。

そのとおりだと思う。そして、その「おせっかい」度に基準値はない。ベンチマークは自分でつくり判断するしかない。自分が置かれた様々な情況要素を鑑みながら。

自分の「世の中のために働く2.0」を求めている僕の頭の中に、今、渦巻いている言葉がある。

Burst and Shrink. バースト・アンド・シュリンク。爆発と凝縮。拡大と縮小。成長と成熟。
これは塩見直紀的コンセプトスクールで発見した言葉である。


高度成長、アスベスト、おせっかい、参与観察、バースト・アンド・シュリンク。
今月は千々に乱れた文脈でした。読んでくれた人、ありがとうございます。