2013年11月30日土曜日

Beatles For Contexter-ビートルズとコンテキスター

僕はビートルズで英語を覚えた。
初めてリアルタイムに聴いたビートルズは“ROCK AND ROLL MUSIC/ロック・アンド・ロール・ミュージック”。文化放送の「9500万人のポピュラーリクエスト」というラジオ番組を必死でチューニングしていた中学2年生の僕、13歳。当時、香川県坂出市在住。

♪Just let me hear some of that rock and roll music~
この曲は今でも「♪とぅさみひざもら、ろっくんろーるみゅーじっく~」としか聞こえない。ビートルズの英語には独特の発音があった。

You got to はYou gotta、よーがった~。
I want toはI wanna、あいうぉな~
リバプールなまりの英語は僕にとって、今でもとても心地良い。

で、2013年11月11日。
「あいうぉな~みーちゅー、ぽーる!」ということで京セラドームに行ってきた。
ポールマッカトニー、「OUT THERE」コンサート。


1曲目は“EIGHT DAYS A WEEK/エイト・デイズ・ア・ウィーク”。
3曲目は “ALL MY LOVING/オール・マイ・ラヴィング”。

このあたりで、僕は1966年の女子高校生のように失神しそうになった。
ビートルズの最初で最後の日本公演は昭和41年。東京は武道館にて。
最初の曲は“PAPERBACK WRITER/ペイパーバック・ライター”だったことをよく覚えている。四国の中学生は白黒テレビにかじりついていたのだ。
当時の讃岐の青少年については「讃岐のデンデケデケデケ」をご参照ください。

今や「ひとりビートルズ」となったポールは唄い続ける。

“THE LONG AND WINDING ROAD/ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード”
山の神の実家である松江の野津旅館が改築されるときに「野津旅館の想い出」という映像をつくったことがある。そのバックに流したのが、この曲だった。

ビートルズの楽曲には、ほんとにお世話になった。公開しないプライベート映像を作るとき、僕はビートルズを使っていた。
電通を脱藩するときの卒業映像のキーミュージックは“IN MY LIFE/イン・マイ・ライフ”だった。このジョンの名曲をポールはコンサートでは歌わないが。

“AND I LOVE HER/アンド・アイ・ラブ・ハー”が聞こえてくる。甘酸っぱいものが込み上げてくる曲だ。このラブソングだけで短編小説が書ける。

そしてポールはギターを置いてキーボードの前に座り“LET IT BE/レット・イット・ビー”が始まる。

このコンサートはBGVも素晴らしい。サイケデリックなアニメーションや懐かしいPV風の映像つくりなど、耳だけでなく眼でも楽しむことができた。
この曲のときも、映像が浮かび上がってくる。
“♪LET IT BE~”のフレーズとともに映し出されたものを見て僕の涙腺はゆるみそうになった。
「天燈」すなわちスカイランタンがステージに浮かび上がったのだ。

この映像には見覚えがある。NPO法人英田上山棚田団の仲間たちが上山集楽の夏祭りで夜空に浮かべたのが、この天燈だった。
仲間のひとりがネット上で、今まさにステージ上で展開しているスカイランタンの映像を見つけてきたのがきっかけだった。
「あるがままに」ゆっくりと空に昇っていくスカイランタンの映像を見ながら、ポールの歌声を聞いていると、僕は本当に不思議な気分になった。

「OUT THERE」に行ったとき、僕は『上山集楽物語 限界集落を超えて―』(吉備人出版/12月下旬刊行予定)の校正作業中だった。その夏祭りの章には「天燈」が登場する。
英田上山棚田団出版プロジェクトチームの一員として没頭していたデスクワークから「外に出たかった」ので、コンサート前日にチケットを予約したのだ。

そのコンサートで「天燈」映像を見ると、『上山集楽物語』の登場人物たちの先見性がポールマッカトニーにも伝わっている気がしてきて感動を覚える。
ステージの写真では判別できないが、ここに確かに天燈が浮かんでいた。
仲間たちが2012年8月12日に上山集楽で上げたのと同じ天燈が……。



天燈を上げる棚田団
ポールマッカトニーは1942年6月18日生まれ。僕より10歳年上だ。
彼は相変わらず左手でギターを弾いていた。当たり前のことだが。
左利きのギターでジョージと同じマイクで唄うときのかっこよさは、田舎の青少年にも伝わった。


71歳のポールは唄い続ける。そのパワーは圧倒的だ。
僕は2010年に当時69歳だったボブディランのコンサートにも行ったことがあった。このおっさんは最低でしたね。観客は無視。自分だけの世界に陶酔しているようなコンサートだった。
ディランと較べるとポールのコンサートはインタラクティブだ。
もちろん、それは僕とビートルズの文脈が繋がっているので、余計に自分ゴトとしてポールの唄声が聞こえてくるせいかもしれないが。

コンテキスターと名乗っている身としては、もう少しポールを巡る文脈を書いておきたい。

ポールのコンサートには2002年にも行っている。
この時は山の神と一緒だった。仕事仲間からチケットをプレゼントされて嬉々として行ったことを覚えている。
DRIVING JAPAN 2002では“SHE'S LEAVING HOME/シーズ・リーヴィング・ホーム”が印象的だった。確かギター一本でやったのじゃなかったかな。

2002年から2013年、この11年の歳月は長い。ポールの唄声に関する限りは瞬間接着剤を使ったように時の流れがくっついているが。

2002年、僕は50歳。日本にもようやく「ブロードバンド」という言葉が浸透してきた時代。WEBクリエーティブをディレクションする、という訳のわからん仕事を任されたおかげで日進月歩の毎日だった。
犬のように働いて丸太のように眠るハードデイズナイト。
長男は20歳。アメリカの大学に留学していた。次男は17歳、メイは7歳。二人はずっと仲良しだった。
2013年も終わりに近づいた今、家族構成はずいぶん変わった。

一方、世の中のあり方はどんどん進化して、世界中に必要なラブはすべていきわたり、人々はあるがままに幸せに暮らせるようになったとさ。レットイットビー、レットイットビー……。

であればいいのだけど、残念ながら今現在、この国の政治情勢は退行して頓挫している。
黄金色のまどろみの中に逃げ込んで眼をつぶりたい気分だ。いつ物事は「ゲッティング・ベター」になっていくのだろうか。

と泣き言ばかりを言っていては子供たちに申し訳ない。文脈爺さんは、この愛おしい列島のコンテキストについて思いつくことを書き連ねて雲の上に遺しておこう。キーボードを叩く力が残っている限り。

2002年の総理大臣は変人宰相、小泉純一郎だった。彼はポールと同じ1942年生まれで現在71歳。
2013年のそれは……名前を書く気にもなれない。愚昧宰相のことを再び書くのは別の機会にしよう。

だが、僕たちはダウンしたわけではない。

政治のシーンでは退行頓挫しているが、草莽のフィールドでは新しい時代の胎動がしている。それは確かな脈動でもあり、リズミカルに列島を刺激し始めた。

2002年にはありえなかった動きが起こっている。脈動は永田町でも霞ヶ関でもなく、この国の中山間地からフェースブックを通じて発信され続けている。発信だけではなくアイデアは実践となって道を拓いているのだ。

ポールのコンサートの興奮が収まった後も、僕は『上山集楽物語』の校正を続けている。
2年前の年末に“上山集楽”という言葉が誕生した日の直後に僕は「上山集楽、山の上の雲人たち」という文脈レポートを書いていた。
その時点から始まった壮大で勇壮な物語を精緻に読みかえしてみると、上山集楽は“レボリューション”の方法論を常に模索し続けていることがよく分かる。

“REVOLUTION” ♪We all want to change the world~ 

上からではなく下から。タテではなくヨコに繋がって。町ではなく村から。
この列島の背骨として連なる中山間地から。

「僕たちはみんな世界を変えたいんだよ」と1968年にビートルズは唄った。
「ジュード、くよくよするのはおよしよ」という唄とカップリングされて。

もちろん、僕たちは政治の大情況から逃れることはできないし無視もできない。「あっしには関係ございません」という選挙行動が「子供たちの未来を担保できない」政権を生み出したのは間違いないのだから。しかしながら、政局を嘆いて誰かさんのせいにしていても世の中はシフトできない。

一人の変人が小さな火を点けて、二人目のへそ曲がりがやってきて燃えるものをくべる、三人目がそこに空気を送る。燎原の火はこのようにして広がっていくのだ。“上山集楽”の物語は読者が本の中に入って登場人物になるダイナミズムを持っている。


ビートルズは世界のポピュラーミュージックをシフトした。そしてポールマッカトニーはそのシフトの語り部となって、今なお世界中を唄い歩いている。

オデオンの赤いアナログレコードで育った世代は、今なおゴムのように弾む柔らかい心を持ち続けているだろうか。
「RUBBER SOUL/ラバー・ソウル」は僕の生涯ベストアルバムだ。久しぶりに紙ジャケットからLPを取り出して見たら、また甘酸っぱいものが浮かんできた。けれども感傷に浸るだけのじいちゃんには、まだなりたくない。


まだまだビートルズの名曲はある。じいちゃんの唄だってある。
“WHEN I'M SIXTY-FOUR/ホエン・アイム・シックスティー・フォー”
64歳になったら孫二人に囲まれて、まだ山の神にも愛されてワインを楽しむ幸せなじいちゃんの唄だ。

コンテキスター、フミメイは61歳で二人の孫を授かった。
歴史のターニングポイント、2011年に一人目。2013年11月25日に二人目。
今度は男の子だった。隆之亮(りゅうのすけ)と言うそうだ。

ポールは71歳になってもまだ“NEW”と唄う。
♪Then we were new~ そして僕らは生まれ変わった~

隆之亮は誰の生まれ変わりでもなく新しい命として外に出てきた。

OUT THERE!

願わくば、君が出てきた世界がメリーランドになっていきますように!


今月も長いエントリーを読んでくれてありがとうございました。感謝の気持ちを込めてほんの少し、ポールの唄声をお届けします。




トラブルはどこかに飛んでいってほしいね。