2013年5月31日金曜日

文脈日記(書くためのナイフ)

この半年、ほぼ毎日、書き続けてきた。
半農半X研究所の塩見直紀さんから2012年のお正月にもらった言葉を支えにして。
何度もすみませんが、以下、再び引用です。

  才能というのは、
  研いでいないナイフのようなものだ。
  毎日、ただ毎日書き続ければ、
  そのナイフを研ぐことができる。
  人によってナイフの大きさは違う。
  しかし研いでみないことには、
  そのナイフがどんな形なのかわからない。
  小さくてよく切れる果物ナイフなのか。
  巨大な岩もまっぷたつに切り裂く大ぶりの刀なのか。
  才能のある・ないというのはこのナイフのサイズのことだ。
  大きな刀なら歴史的な大作が書けるだろう。
  でも小さなナイフでも、本を買ってくれる人を
  一晩夢中にさせる程度の作品を書くには充分だ。
  だからナイフのサイズが問題じゃない。
  それが本当にナイフか、
  つまり「研がれているか」どうかが問題なのだ。
  だから大事なことは、ナイフを研ぐこと。
  毎日書くことである。

         「才能」について/作家スティーブン・キング

この言葉を支えにして、2013年の正月から書き続けてきた。
まずは協創LLP=NPO法人英田上山棚田団の出版原稿。その経緯は当研究所の「本を出すということ」というエントリーを読んでほしい。そして当研究所の定例レポートも月に一度の更新を守っている。

「愛だ!上山棚田団~限界集落なんていわせない!」の続編のタイトルは「上山集楽物語~楽しいことは正しいこと」で、ほぼ決定している。この本における僕のパートは書き終えた。
現在、吉備人出版と共同執筆者とで原稿の調整作業に掛かっている。その内容については僕のブログで書くべきことではない。

今月のエントリーでは、僕の「書く」という行為について、あらためて文脈を整理しておきたい。

「大事なことはナイフを研ぐこと、毎日書くこと」というのは確かに名言である。
「継続は力なり」とはよく言ったもので、研ぎ続けることによってナイフは切れるようになってくる。僕のナイフも半年前に較べると切れ味がよくなってきているのは確かなことだ。しかし、問題は研いだあとにあったのだ。

どんなによく切れるナイフや包丁を持っていたところで、切る素材が良質のものでなければおいしい料理はできない。と、ニワカ料理人みたいなことを書き出すと、また山の神に笑われそうだが。
毎日、外回りのことばかりをしないで、そろそろ家で料理当番でもしたらいかが、と言われそうだが。

それはともかく。
切るべき素材は目の前に山ほどある。
しかもよく切れるナイフを持つということは、自在な切り方ができる、ということだ。理論的には。
野菜の繊維に沿って切るのか、繊維を断ちきって切るのか、ざく切りなのか、ミジン切りなのか、いちょう切りなのか、切り方によっても料理の味と見た目は変わってくるはずだ。

おかげさまで、現在、僕の目の前にはとても新鮮な素材が並んでいる。なぜか今の僕の周りには、いい意味での「変人」と「へそ曲がり」が多いので、切ってみたいものばかりになる。

素材というにはあまりに失礼な人材ぞろいなので相手にとって不足はない、などとニワカライターが偉そうに言える立場にはないのだが。

そうです。実は僕はいまだに本の一冊も書いたことも出したこともないニワカライターなのであります。

でありながら、「書く」ということについて書くという大胆不敵な行為におよぶのは、今、書いておかないと忘れそうだという思いがあるからだ。
このあたりの感覚は還暦を過ぎて早1年の身に覚えがあることなのだから。とにかく記憶力は衰える一方だ。もちろん「固有名詞忘却シンドローム」である。
ある人物なりタレントの顔、声、プロフィール、すべてディテールを思い出すのに「名前」だけが出てこない。いらいらする。でも出てこない。
「固有名詞忘却シンドローム」は僕の造語だが、この現象自体は脳科学の分野で解析できることらしい。「海馬があーだ、こーだ」と、糸井重里の本か何かで読んだ覚えがある。

僕のブログであれば、この現象については、この程度の書き方で次に進んでいけばいいのだが、商業出版となるとそうはいかない。
「神は細部に宿る」というよく言われる言葉もあり、本の面白さはどこまでディテールを書きこんでいるかにもよる。これは活字中毒者すなわち本をたくさん読んできた一読者である僕の実感だ。

「継続は力なり」「神は細部に宿る」、よく言われる言葉、とここまで書いて執筆者意識に戻ったら、これはもう大変だ。この言葉の出典を調べずにはいられなくなる。
僕が、今のところ、いちばんよく使っているiPadアプリは辞書関係かもしれない。
本当は類語辞典がもっとほしいのだが、辞書アプリは高いので……。



書くことは体力を使うことだ、と言えば、比喩の類だと思っている方がいるかもしれない。

ひと昔前なら、僕の右手中指にはペンだこがあった。が、今はない。昔は鉛筆やペンを握って手書きするのは握力が必要だった。今はキーボードをかちゃかちゃして、ときどき手休めにマウスを持てばいい、楽なものですわ。まあ、右手人差し指にタッチたこらしきものができつつはありますが。

このようにして、書くという行為の運動量は減少しているのかもしれない。
でも、書くことには体力がいる。それは昔も今も変わらない。おそらく未来永劫、変わらない。

書くための体力その1。

書くためには大量に読む必要がある。マラソンを走る前に大量のパスタで熱量補充が必要なように。
この半年、僕はけっこうたくさんの本を読んできた。そして書くために必要な本はできるだけ自炊してiPadに格納している。本を裁断するのも体力がいるのだ、というのは嘘で、慣れてきたら1発ですぱーっと切れる。

あれ、この言葉は、どの本で読んだのだったか? 誰かがどこかで書いていたことを僕が思いついたように書いてはいけない。

読みつつ調べつつ書くというのは体力がいる。調べる、ということに関してはインターネットのおかげで、随分楽になった。
ある程度までは高速道路に乗ったようにすいすいと調べることができる。だが、高速を下りて幹線道路もはずれて、そこから先の獣道をたどるというのが「調べて書く」という行為の本質なのだろう。
この「高速道路」と「けもの道」の比喩は梅田望夫の著書に基づいています。上記の文章は単純な引用ではありませんが。

などと、くどく書いているのは理由があるので、もう少しおつきあいください。

読んで、その本にインスパイアされて書くという行為も道具の発達でとても楽になってきた。iPadの本棚アプリには「しおりメモ」という機能がついている。Kindleアプリにはすぐれたハイライト機能がある。

インターネットで調べる。そこから一次情報をたどっていく。必要なら一次情報の本を購入する。毎日、Amazonから本が届く。一次情報の本は難解なものが多い、しかも高額だ……山の神には内緒だが。

元々、本を読むのは大好きなのだが、最近はよくできたミステリー小説や冒険小説を読む、という時間がなくなってしまった。冒頭に引用したスティーブン・キングのミステリーを一気読みする快楽の時間を持ちたいと切に願う今日この頃なのですよ。



書くための体力その2。

書くというのは怖ろしく孤独な作業なのだ。確かに「暗い地下室に降りていく」ような感覚がある。その深度が村上春樹の場合、100メートルだとしたら、僕は160センチなのだろうけど。

このエントリーだって、僕はたまたま今日書いているのではない。今日、今、ほんの少し、自分の地下室に降りて書いておかないと、僕の「書く」という行為が前に進めなくなるから書いているのだ。ほんのわずかな階段でも体力を使うことは事実である。

最近、僕の母方の遠い親戚と会合する機会があった。どうやらこちらの血脈には書くことが好きな人が多かったらしい。戦争中は「近代戦と国防」という評論を著し、昭和22年には進駐軍のジープを讃える絵本を書いた詩人がいた。この僕の遠い親戚はどのような地下室を上り下りしていたのだろうか。



書くための体力その3。

書くということは緻密さを要求される作業だ。
言葉の意味は時代によって変わっていくので、アップ・トゥー・デートな用語の選択。
内容の重複を避ける工夫、同じ言葉の重なりを避けるレトリック。
ステレオタイプな形容詞、熟語の回避。
主語と術語の整合性、表記の統一。
思いこみによる誤字の回避。ワープロ変換による誤字からの修正。

手書きからワープロソフトの普及によって、書くという物理的な作業は楽になっている。
僕自身も、もう手書きでは1行も書けやしない。漢字はほにゃらら、とごまかして書くしかない。
でもワープロソフトの罪が深いこともある。
動詞を重ねて表現する言葉をワープロは礼儀ただしく、両方とも漢字に変換してくれるのですね。
「思い込む」は、僕の場合は「思いこむ」と書きたい。手書きの時代には、こう表記していたはずなのだから。まあ、こんなことは年寄りの戯言なので、時代の変化で対応していけばいいのだけどね。

しかしながら、ニワカライターでも緻密さを意識してアウトプットしたほうが、読者にフレンドリーな文章ができあがるのは確実だと思う。

僕は文脈家としては、ざっくざっくと対象を大きく切っていくのが好きだが、文章家としてはレトリックをこねくり回すのが好きだ。
どっちにしても体力がいる。

また長いエントリーになりつつありますね。
読む方に体力を要求する文章は読まれないのでこのあたりにしておきましょう。
以下、最近、読んだ本、読みつつある本の中からいくつかを参考までに。



と言いつつも補足があります。
今後、僕が書きなぐっていくものが、どのようなジャンルの書き物になっていくのかはよく分からない。ただ、僕の意識の中でノンフィクションというジャンルが大きくあることは確かだ。
ノンフィクションと言えば、開高健の「釣りノンフィクション」、沢木耕太郎もの、開高健ノンフィクション賞受賞作などなど、僕の本棚には、このカテゴリーが山ほどある。

そして、佐野眞一も。

佐野眞一の満州関連著作を参考にして、僕の父方と母方、そして山の神方の私的満州史を書いてみたいというのが、僕の妄想のひとつである。彼の本には、妻の伯母さんの夫の写真が掲載されているので。



ところが、困った本に出会ってしまった。



「佐野眞一が殺したジャーナリズム~大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相」
ノンフィクション界の巨人は、手癖の悪い書き手だということを証明しようとする本だ。

悲しいことに、どうやらそれは本当らしい。
ニワカライターでさえも書くことについて体力を使っているのに、否、ニワカライターだからこそ体力がいるのかもしれないが、なんだか巨匠界の哀愁が漂う話だ。

この本に書かれているファクトをどう判断するかは、ニワカライターにとっても試金石になりそうだ。また引用と盗用の境目、書き手のモラルの問題を考える話が詰まっている。
引用と地の文の差異化は、くどいほど読んだほうがよさそうである。

紙の本、電子本、ブログ、あるいはソーシャルメディアで信頼を蓄積し共感を発信しようとしているすべての書き手に、ニワカライターからご一読をお薦めしておきたい。