2013年6月28日金曜日

文脈日記(脱藩3周年・林住期)

6月末で電通を脱藩して3周年になる。ただ、今年は去年の高揚感とはほど遠い気分だ。

石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、その「閉ざされた感覚」を深く濃くしている。
それは、もちろん現在の政治情況によるところが大きい。だが、僕自身の気分も転換点に来ているように思えてならない。
本音を言うと、ちょっぴり立ち止まりたい気持ちが強い。どうやら僕の文脈生活も停滞期に入ったらしい。

停滞期というとネガティブなので、ここは「林住期(りんじゅうき)」という大きな言葉の範疇に入ってみよう。

古代インドでは、生涯を四つの時期に分けて考えたという。「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、そして「林住期(りんじゅうき)」と「遊行期(ゆぎょうき)」。「林住期」とは、社会人としての務めを終えたあと、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」のことである。 
『林住期』五木寛之/幻冬舎 前書き

人生のクライマックスは、後半の50歳から75歳にある。それまでの人生は「燃えながら枯れていく」林住期のための助走期間なのだ、と五木は言う。

61歳の僕は、その林住期の折り返し点にいるのでしょうね。58歳からの3年間を「極私彷徨」してきたから、折り返し点に近づくのも早いのかもしれない。

「死ぬまで18歳」と強がってはみても、老いは確実に来ているのだ。どこかの誰かさんが「老い」などというネガティブ・ワードは使うな、と言っても実際にそうなのだから。
アウトドアで身体を使った翌日は平気でも、2日後にどーんと身体が重くなる。やたらに眠い。もちろん「固有名詞忘却シンドローム」は深化する。いつも何か忘れ物を探している。

時には「老い」を自覚して、自分を客観視することも林住期を生き抜く知恵だと思う。でないと、そこに「鬱(うつ)」という怪物が忍びこむこともあるのだから。

「林住期」は人生におけるジャンプであり、離陸である、と私は思う。まったく新しくスタートするのではない。過去を切りすてて旅立つのでもない。それまでの暮らしを否定し、0からやり直すのでもない。これまでにたくわえた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなどの豊かな財産の、すべてを土台にしてジャンプするのである。その意志のあるなしこそ「林住期」の成功と失敗を左右する。
『林住期』五木寛之/幻冬舎 P35

はい、五木先生、そのとおりです。でも以下のような生活に憧れる気持ちも今の僕にはあるのですよ。

(林住期)はリタイヤの時期とみなされた。定年退職して、なにか趣味に生きる。妻にいやみを言われながら、ゴロゴロして暮らす。イヌの散歩につきあい、孫のお相手をする。(中略)そこでは「林住期」は、人生のオマケの季節のように扱われてきた。「濡れ落葉」とからかわれるゆえんである。
『林住期』五木寛之/幻冬舎 P62

「趣味に生きる」
いいですね。僕の場合は釣りという変人のための趣味がある。
「妻にいやみを言われる」
もう慣れっこなので平気です。あっ、言ってしまった。
「孫のお相手をする」
自分の子供の面倒は一切見なかったので、どうやって子守したらいいかも分からないでしょ、と山の神に指摘されながら、という注釈つきであればできます。
「ゴロゴロして暮らす」
寝っころがって、冒険小説やミステリーを読みながらであればウェルカムです。

「イヌの散歩につきあう」
残念ながら、これはもうできそうにない。自分のイヌという限定ですが。

うちの家族の犬はメイという。小型犬のパピヨンという犬種だ。
1996年6月10日生まれの満17歳。人間でいえば84歳の「遊行期」のおばあちゃんである。もう散歩はできない。そして、僕はもう自分で犬を飼うことはないだろう。
うちの犬はメイが唯一無二だ。

今月のエントリーは「時代閉塞を突破するために我々はいかに林住期を生き抜くべきか」などという勇ましいことを書く気にはなれない。もっとうじうじと昔を振り返ってみたい気分だ。

電通を脱藩して以来、自分の過去のコンテキストは封印してひたすら前を向いてきた。この1年間でもフミメイ号は2万4千キロ走っている。小休止しても問題はないはずだ。

36年間も電通のような変人だらけの会社勤めをしていれば、それなりに面白い話はたくさんある。もちろん、まだまだ書けないことのほうが多いが。僕はもうNDA(秘密保持契約)に縛られてはいないが、モラルとマナーとして。

そんなわけで過去を振り返るといっても限定的なものになるわけで、今回は犬の文脈にフォーカスして書いてみたい。

1996年8月中旬、僕が信州から帰ったら、そいつがちょこんと座っていた。
僕は44歳、「家住期」(朱夏)の頃。「家に住む」ことはあまりなく出張だらけの生活をしていた。
その日は玉村豊男さんのヴィラデストでCM撮影をして帰ってきたら、メイがうちに来ていた。

はじめて、メイを見た時、僕はあまりの可愛さにこう言ってしまった。

「よしよし、メイは何があってもお父さんが守ってあげるからね」
この発言は、家族から非難をあびた。なにしろ家をほったらかしで仕事と釣りしか見えてないお父さんがメイにだけは優しい言葉をかけたのだから。


メイという名前は決まっていた。
僕の山の神は五月生まれで「五月」という。メイは六月十日生まれなのに「メイ」だ。これには深いわけがある。

うちの家では山の神に逆らったら生きていけない。だからうちの犬も五月の子分になるべきだ。
五月の子分といえば「メイ」に決まっている。「となりのトトロ」を見てごらん。
たまたま誕生日が五月から十日遅れたけど、そこは誤差と考えなさい。

こんなふうに僕は六月生まれの子犬を説得して「メイ」と名づけたのだ。


犬の「学生期(がくしょうき)」すなわち青春はまことに短い。2年たつと人間の23歳になってしまうのだ。長いスカートを引きずっていた娘も大人になっていく。

「家住期」を迎えたメイは、僕の仕事のお手伝いもしてくれた。

2001年、メイは5歳(人間暦36歳の女盛り)、僕は48歳。
21世紀が始まったこの年、僕はインパク(インターネット博覧会)というネット上のお祭りのコンテンツを制作していた。
僕が担当していたサイトのひとつは動物と人間の共生をコンセプトにしたものだった。メイは当然のように、そのサイトのプロモーションに登場する。



動物といえば、動物王国のムツゴロウこと畑正憲さん。
このサイト制作のため僕は2001年には、何度も北海道は中標津と浜中の王国に足を運んだ。
そして僕は動物王国にいたたくさんの犬たちに触れている。家に帰るとメイは不審尋問をするように僕をくんくんしたものだった。



そして、王国には忘れられない犬がいた。
ボストンテリアのテリー、ムツさんが愛してやまない犬だった。



ムツさんがハーモニカを吹くとそれに合わせて唄う頭のいい犬がテリーだった。僕たちの仕事場であったムツ牧場の母屋でテリーはいつもそばにいた。


うちのメイとテリーは同い年だった。僕はこの頃、ムツさんに聞いたことがある。

ムツさん、もし愛犬が死んでしまった場合、どうやってショックを和らげたらいいのですか。

それはね、その犬の死期が近いと思ったらすぐにもう1匹、新しい犬を飼い始めるのさ、それしかないね。

このエントリーを書くためにあらためてテリーのことを調べていたら、彼は2009年7月に逝っていた。享年13歳。突然死だったらしい。

2年前にムツさんに会ったときに、僕はテリーのことを話した。
テリーが死んだと知らされて、僕はムツさんにどんな死に方をしたのですか、とたずねてしまった。
ムツさんは嫌な顔をして、そんなこと、僕に聞くなよ、と答える。
僕は無神経だった。ムツさんは本当にテリーのことが好きだったのだ。

うちのメイの方は17歳の誕生日を過ぎてもおかげさまで元気にやっている。

そして僕は、メイの美人日記を撮影し続けてきた。ソーシャルメディアがない時代で、僕はブログも書いていなかったので、初公開の写真ばかりだ。

2004年、ドコモがMOVAからFOMAに切り替わりつつあるとき、携帯で撮影したメイ。長い間、僕の携帯の待ち受け画面だった。メイ8歳(人間暦48歳)。


林住期(白秋)を迎えても、まだまだ美人だった。10歳(人間暦56歳)の頃はこんな感じ。


毅然として寒風に立ち向かうメイ、11歳(人間的には還暦)。


僕の方は今世紀の初めの10年間は激動だった。普通のCM制作からネットの世界の獣道に踏みこんで、誰もやったことがないことばかりにチャレンジして悪戦苦闘していた。

トラブルばかりが起こる。トラブル・バスターに徹する。血圧は上がる。

そして、当然のように家のことは山の神にまかせっぱなしだ。
メイの世話も熱心にやっていたとはいえない。散歩も毎日していたとはいえない。
それでもメイは僕が家に帰ると、一声、ワンと吠えて尻尾を振りながらお迎えしてくれた。ほとんど吠えない犬なのにお迎えの時だけは威勢よく吠えてくれていた。

そんなメイも遊行期(白秋)を迎えた。2011年6月10日、15歳(人間暦76歳)の誕生日。この頃までは、まだ元気に散歩をしていた。僕は311後の困惑に自分なりの対処をするのに夢中で、家ではさぞかし機嫌が悪かったことだろう。


2012年の誕生日には15歳年下の若い娘が強力なライバルになったが、ケーキのろうそくを吹き消そうとしている。




そして迎えた今年の誕生日、今から18日前のメイは奇跡的に可愛くなった、と親バカを言っておこう。
パピヨンは蝶々のような耳をしているのでパピヨン(フランス語で蝶)という。その耳も長い毛もカットしてメイは白いタヌキのようになった、いや、生まれたばかりの子犬のようになった。ちょっと言いすぎかな。



「死ぬまで18歳」とアホなことを言い張る林住期の父を横目で見ながら、メイは「18歳まで死なない」と健気な遊行期の歩みを始めている。うーん、すごい犬だ。


ドッグイヤーという言葉がある。犬の1年は人間の7年に相当するそうだ。その換算は大型犬の場合で、小型犬のドッグイヤーは幸いなことにもう少し緩やかな流れのようだ。

脱藩以来の3年間は、僕にとってはまさに小型犬のドッグイヤーだった。
今世紀の最初の年、ネットの世界にどっぷり漬かり始めてから、公私ともにドッグイヤーの経験値は積んできたつもりだ。
それでも、特にこの1年間の変化は激しすぎる。

こんなときは少し立ち止まること。過去を振り返ること。

で、メイが生まれた1996年のことを調べていると興味深い事実を見つけた。

バブルがはじけたのが1991年。そして阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が1995年。日本のインターネット元年と言われているのも1995年だ。

その翌年、1996年にはアトランタ・オリンピックがあって、メダルをとったマラソンランナーが「自分で自分をほめてあげたい」という名言を残して流行語大賞になっている。
僕もこの言葉が気に入って多用していた。特に管理職になって「人事評価」なるものをするときには部員たちに「まず自分で自分をほめなはれ」とよく言っていた覚えがある。

そんなことは電通時代の文脈からすぐに思い出せることなのだが、脱藩以来のドッグイヤーを過ごしていなければ、絶対に注目しなかった事実があった。

1996年は鳩山由紀夫が旧民主党を結成した年だったのだ。
「友愛」という言葉がもうひとつの流行語大賞になっていたのですね。

その旧民主党の基本理念を書いたのは、半農半ジャーナリストの高野孟さんだった。脱藩してからいろいろな論客に巡りあったが、その中でも特に尊敬している方のひとりが高野さんだ。

僕もメイにならって林住期の次の一歩を踏み出すために引用させていただこう。
私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという「個の自立」の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという「他との共生」の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない。
西欧キリスト教文明のなかで生まれてきた友愛の概念は、神を愛するがゆえに隣人を愛し、敵をも愛するという、神との関わりにおいて人間社会のあり方を指し示すもので、そこでは人間と自然の関係は考慮に入っていない。しかし東洋の知恵の教えるところでは、人間はもともと自然の一部であって、一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も、同じようにかけがえのない存在であり、そう感じることで自然と人間のあいだにも深い交流が成り立ちうる。そのように、自然への畏怖と命へのいつくしみとを土台にして、その自然の一部である人間同士の関係も律していこうとするところに、必ずしも西欧の借り物でない東洋的な友愛の精神がある。 
『高野孟の曼荼羅&あーかいぶ』より一部を転載

「一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も同じようにかけがえのない存在である」
そのとおりですね、高野さん。

僕と家族にとって、メイはかけがえのない存在だ。そのメイが生まれてからの17年で世の中はずいぶん変わってしまった。
そこのところを書き始めると、僕は「気分閉塞」になってうつうつと書き綴りたくなってくるので、もうやめにしよう。

こんなときは原点に帰った方がいい。どの時点の原点に戻るかが問題だが。政治的文脈は1996年の旧民主党基本理念に戻ってくれることを切望するが、その戻り道は草ぼうぼうで先が見えない。

僕が今、戻るべき原点は脱藩時に盟友を追いかけたときの基本理念、やっぱり「半農半X」しかないのだろうな。

脱藩3周年、僕は半農半X研究所代表の塩見直紀さんにお願いして、こんな名刺を持たせていただくことにした。



33歳、家住期まっただなかの内村鑑三は「金、事業、思想」の三択を提示したが、林住期の住民は金や事業を選べるはずもない。

だとすれば残りは思想なのだが・・・そうは言われてもねえ、と主任研究員のくせに弱気になる自分を見つめる脱藩3周年。