2014年5月17日土曜日

文脈日記(福島 Merry Land)

福はMerry、島はLand。福島はMerry Land、メリーランド。



このロゴタイプがメリープロジェクト公式サイトにアップされたのを見た瞬間、僕は福島に行くことを決めた。

311直後に、まだ余震が続く六本木の水谷事務所で、コンテキスターと名乗り始めていた僕は「日本メリーランド計画」という話を水谷さんとしていたのだ。



メリーランド計画は、その後、「上山集楽」で着々と現実化されている。

そして、メリーランドという言葉を普遍化させていくプロセスで、福島は本来、メリーランドである、と水谷さんが教えてくれたのだ。これは行かねば。

福島とフクシマ、漢字表記とカタカナ表記では意味が違ってきている。
ヒロシマ、ナガサキと連なる文脈で否応なく語られるようになったフクシマ。
そこに生活者がいる福島。その漢字表記は大きな意味を持っている。
そして、ひらがな表記の「ふくしま」は子供たちのためにあった。


〈ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクト〉
2014年4月2日~4月4日 福島市あづま総合体育館



福島県の小学生10万人が白い紙皿に思い思いの笑顔をアートする。
そして紙皿は〝笑皿〟になった。
1枚の笑皿は20センチ。そのミクロな空間ひとつひとつに子供たちの顔が見える。個性が見える。


直径20センチの笑皿が10万枚集まって、マクロなアートを形づくる。
タテ55メーター、ヨコ40メータの〈福島 Merry Land〉のフェイスはメリーちゃん。
そのボディは“2014 MERRY FUKUSHIMA”。


4月1日の朝。
〈福島 Merry Land〉は、まだ設計図しかなかった。大量の段ボール箱が積みあげてある。中身はふくしまっ子の笑顔だ。

大勢のボランティアが体育館のアリーナに引かれたグリッドにしたがって、笑皿と文字をカタチづくる色皿を並べ始めると、窓から自然光が入ってきた。
福島の光と子供たちの笑顔がコラボレーションされて、巨大アートは刻々と完成に近づいていく。



「これは、すごい……メリー史上、最高のアートですね……メリー文化遺産ですね!」

詳細な設計図にしたがって形成されていくFUKUSHIMAの文字を見ながら、僕はミスターメリー・水谷孝次さんに声をかけた。



「そうでしょ、フミメイさん。でもこのアートは遺せないのですよ。3日間だけのメリーランドです。こういう大きなプロジェクトはアフターケアーが大変なんです」
「文化遺産がカタチとして残せないのなら、写真と映像で記録していくしかないですね。僕もお手伝いします」



カタチを遺せないのならストーリーを遺そう。
かつて、水谷さんと「ウメリー@上山集楽」というアートプロジェクトを実施したとき、二人で話し合ったことがあった。これからのアートはカタチではなくストーリーだと。

今回の〈福島 Merry Landは、もちろんカタチのアートである。笑皿と色皿を一枚ずつ、20センチのコマにレイアウトしていくことにより、カタチが見えてくるのだから。



しかしながら、この文化遺産のカタチは残せない。
会場に来て、自分の目で見た人の記憶には、カタチが焼き付いていることだと思う。

アリーナの入口をくぐり抜けた瞬間に見えてくる巨大アートがもたらしたエモーションは、写真や映像、すなわち他人のフレームで見るのとは違ったものだろう。

残念ながら、あのカタチはすでにない。


〈福島 Merry Land〉のカタチはなくても、そのストーリーは現在進行形だ。
コンテキスターであるフミメイは、そのストーリーも記録に遺したい。


「今から体育館のバトンを利用して上にも笑顔を広げていきます。地上絵アートだけなら、どこにでもある。これは空間全体を笑顔で満たしていくアートにしたいんです」
子供の心を持つクリエーターの水谷さんは、こういう話をするとき、満面が笑みになる。本当に嬉しそうだ。

巨大アート〈福島 Merry Land〉は三次元になっていく。
四面に笑皿をレイアウトした宇宙船笑顔号が上がっていく。
スマイル・マザー・シップだ。


バトンが体育館の空間にせり上がっていくのを見ながら、水谷さんは僕に言った。

「ここ、あづま総合体育館は避難所だったのですよ。だから、このアートのオープニングセレモニーも、あの時、ここに避難して生活していた子供を中心にしたかったのですが」

「そうだったのですか。だったら、セレモニーは東京から来る大臣たちのためではなく子供たちのものにした方がいいですよね」僕は答える。
「〝ふくしまっ子笑顔宣言〟はやりますよ」と水谷さん。

「311から丸3年ですね……」
「……でも、水谷さん、まだ時が止まったままのところもありますね。昨日、僕は南相馬から浪江に入ってきました。福島第一から10キロの地点です。今朝は南相馬からここに来る途中に、飯館村役場を見てきました。今日は新年度の始まりで、除染の大部隊が集まっていましたね。線量は、まだ毎時、1.492マイクロシーベルト……」


〈福島 Merry Land〉のストーリーは311に始まる。
ストーリーアートの本質は、登場人物の物語を持ち寄って、寄せ木細工(ブリコラージュ)をすることだ。

今回は10万個の物語が集まっている。それらは様々なものだが、始まりは2011年3月11日午後2時46分である。そして、3月12日午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発してから、福島の物語は他の被災地とは様相を異なるものにしたはずだ。
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
福島在住の詩人、和合亮一がこうつぶやいたのは3月16日だった。

僕は、その個々の物語を詳細に語る立場にはない。ただ、複雑なストーリーが離散集合する文脈を何とかして理解するための想像力は持ち続けたい、と思っている。
想像力を錬磨するために、僕は2年前にも南相馬に来ていた。
奇しくも同じ、4月1日前後だった。

今回の来福(島)スケジュールを立てていく。まずメリープロジェクトありき。
福島市に入るのは初めてだった。ここは福島空港よりも仙台空港が近い。
仙台空港から福島市に向けてレンタカーで南下するなら、南相馬は途中だ。今の南相馬を見たい、聞きたい。そして、2年前には入らなかった飯舘村も。
福島もフクシマも、マスコミには情報が流れにくい世の中になっている。関西では特にそのように感じる。風評被害は風化に変わりつつあるのだ。

僕は、フェイスブックで結ばれている南相馬の須藤栄治さん(えいじ)にコンタクトした。
仙台空港でレンタカーを借りて、ああして、こうして……。

そのようにして、旅のプランを模索していた僕に、頼もしい道連れが現れる。
NPO法人英田上山棚田団代表理事、猪野全代(いのっち)だ。
いのっちは、前々から被災地に来たがっていた。もちろん、僕はウエルカムだ。
ならば、いのっちも南相馬に連れて行こう。『上山集楽物語』も何冊か持っていって南相馬と上山の縁脈を繋ごう。

3月31日、僕は伊丹空港から仙台空港に飛ぶ。東京から来るいのっちとは福島駅のそばで待ち合わせることにしていた。
この日は強風だった。仙台空港へは海からアプローチする。あの日、海が空港周辺に押し寄せたのと同じルートだ。1度、2度、真下に滑走路が見えるところまで降下したのに、いきなり上昇していく。強風を受けてのゴーアラウンド。おかげで、亘理の風景がよく見えた。まだまだ緑は少ない。3度目、今度、着陸できなかったら伊丹空港に引き返す、とのアナウンスがあった後に無事、ランディングできた。やれやれ。

福島駅でいのっちに会う。棚田団の仲間たちは、本当にフットワークがいい。どこで待ち合わせても違和感がない。

福島市から飯舘村を抜けて南相馬へ。道にはところどころまだ雪が残っている。

2011年3月14日の3号機爆発のあとに、この道を逆流して南相馬市民は避難していったのだ。
その後、飯舘村には御用学者が入って「安全説話」を繰り返した。


南相馬の道の駅で、いのっちとえいじが出会った。期末の忙しい中、えいじは僕たちをアテンドして浪江ゲートまで向かってくれる。


2年前に比べたら、さらに10キロ程度、福島第一に近づけた。
海沿いに入る。時が止まっている。止まっているなかで動いているものがある。モニタリングポストだ。0.176μ㏜/h。



えいじは言う。
「モニタリングポストの数値もよく分からないものがあります。空間線量は地上からの高さの微妙な違いで計測値が変わるし」


「友達が小高の浜に住んでいました。鉄塔がぐにゃりと曲がるのを見てすぐに避難をして命が助かったのです。心配しましたよ」


「小高駅には、まだ自転車が残っています。あの日のまま、放置されてます」


「居住制限地区というのは、要するに家で寝たらだめ、ということでしょう。だったら徹夜したらいいんだ、ということで一晩、自分の家で過ごす人もいますよ」

「除染はいまさら、してもしなくても同じだ、という人もいます。まあ草刈りの手間が省けるから除染してもらおうか、と笑ってますね」


えいじは、南相馬市原ノ町駅近くのダイニングバー「だいこんや」のマスターだ。
2011年6月26日、インタビューに答えている。

自分が(会津若松から南相馬に)帰った理由は、ここが故郷だから。家があって、知人がいて、「だいこんや」があるから帰ってこられたんです。だぶん仕事のためだけで入れるかといったら、できなかったと思う。だから(南相馬への)輸送を嫌がった人たちの気持ちは分かります。 
『ふるさとをあきらめない フクシマ、25人の証言』(和合亮一/新潮社)

2013年度が終わる夜、僕といのっちはえいじの料理を堪能した。



そして、翌日、僕といのっちは、新年度の光あふれるあづま連峰を見ながら、〈ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクト〉の会場に向かったのだった。


南相馬からの笑皿も〈福島Merry Land〉をカタチづくっていた。


〈福島 Merry Land〉オープン前日の水谷さんとの会話に戻ろう。


僕は体育館にバトンが上がるのを見続けながら、水谷さんに言った。

「浪江では〝希望牧場〟も見てきました。原発から14キロの地点で今も牛たちを飼っています。映像で取り上げられることも多い牧場ですが、やはり自分の目で見ないと本質は分かりませんね。送電線の下で牛たちが、一生、そこから出られない被曝した牛たちが、のんびりと草を食んでいるのですね。他人のフレームで見ていたら、あの送電線は目に入らないでしょうね……」


2011年3月12日に開かれた希望牧場の牛は、おいしそうなタンをしていた。


福島はフクシマとの狭間で、福島産の食材のことを考え続けているはずだ。
「低線量被曝に、これ以下なら安全という〝しきい値〟はない」という見解がある。
〈福島 Merry Land〉の10万人の子供たちの食卓への想像力。



「フミメイさん、このプロジェクトは川内村から始まったのですよ」
民放4局のコラボが実現した経緯を訊ねた僕に、水谷さんは答える。

「川内村は、早くに帰村宣言を出した村です。去年の10月のかわうち復興祭で笑皿のカエルオブジェをつくりました。小さなものでしたが。その川内村でのイベントがきっかけで、4局コラボのプロジェクトが動き始めて、半年で、ここまできました。子供の力、母の力、市民の力はすごいですよ」


〈福島 Merry Land〉は福島第一原発の南西30キロ圏内の川内村にプロトタイプがあったのだ。川内村の笑皿が県下の小学校に繋がっていった。系列の違う放送局を繋ぐプロジェクトを発進させたのだ。


『福島と原発2』(福島民報社編集局)より

ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクトを実現するために、普段はライバルである民放4局がタッグを組んだ。
4局との調整作業、各小学校での笑皿制作、その集約方法、巨大アートの設計図つくり、ボランティアの募集、アートつくり、会場運営、あとかたづけ……。
膨大な実務を支えたのは、僕が密かにスーパープロデューサと呼んでいる水谷事務所の柄本綾子さんだ。

着々と進むアートの仕上がりを階上からチェックしている柄本さんにも話を聞いてみた。



「柄本さん、僕はね、〝ふくしまっ子〟〝10万人〟〝笑顔〟というそれぞれの言葉に感じるものがあるのだけど。まず、このアートが、たとえば南三陸ではなく〝ふくしま〟だ、という意味はなんですか?」

「今は、フクシマという言葉が世界中に知られているじゃないですか。そのフクシマを違う意味にしたい、という思いはありますね」

「10万人というのは福島県の小学生の数です。今回、集まった笑皿の実数は9万8千枚。98%です。県下のほとんどの小学校が、参加しました。インフルエンザで笑皿をつくれなかった子の1枚だけを別に取りにいったりもしたのですよ。数を集めることに加えて、ひとりひとりの思いも大事にしました。民放4局の絆も深かったし」


福島県には3つの地域がある。
相馬市、南相馬市からいわき市に至るラインは「浜通り」と呼ばれている。
福島市の南北のラインが「中通り」。その西は「会津地方」。
それぞれの地域には違う特色があるが、同じ福島県である。

『ふるさとをあきらめない』(和合亮一)より
〈福島 Merry Land〉にレイアウトされた笑皿も右から「浜通り」「中通り」「会津地方」になっていた。


あづま総合体育館を訪れた親子の楽しみは、自分がつくった笑皿を発見することにもあった。エントランスに掲示された学校名別のレイアウト図の前に人だかりができる。
皆さん、自分の笑皿がどのあたりにあるのかを確認している。



来場者は、まず巨大アートのスケール感で笑顔になった。
水谷さんも笑顔になる。



それから、連れてきた子供たちの笑皿を探す。
運良く〈福島 Merry Land〉の端っこにいた笑皿を見つけることができた子もいる。
もちろん、見つけられない子の方が多い。なにしろ9万8千枚のうちの1枚を探す行為なのだから。



僕のがどこにあるか分からない、と訴える子供に、いのっちが答える。



「君の1枚はな、体育館のてっぺんにあるかもしれんやろ。それはとても大切な役目をしているんやで。君の1枚がそこにいったから、このアートができたんやで。すごいやん」
さすがはいのっちである。



僕は会場の中で、親子の会話に耳を傾けて、声をかけていた。
ほとんどの人は、笑顔の空間に共感し満足して帰っていったと思う。

ただ、ひとりだけ怒りをぶつけてきた父親がいた。
「自分の子の皿を探せないのなら、こんなことするな!」
いまだに、その人の真意は分からない。もしかしたら、この3年間、福島でずっと探し物をしてきた親子なのかもしれない、と想像してみる。

〈福島Merry Land〉は、ストーリーアートである。
ストーリーには様々なものがある。喜びの、そして悲しみの物語もあるはずだ。

子供たちと親たちの喜びと悲しみ。
浜通りと中通りと会津地方の喜びと悲しみ。
南相馬市の、いわき市の、福島県の全市町村の喜びと悲しみ。
それらを持ち寄って、メリーなカタチができあがった。
喜びはもちろん、悲しみがあっても、まずメリーになってみる。笑顔になってみる。

「笑顔のための笑顔」
「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」

まずは、メリーなカタチをつくってみることで、そこに集まったストーリーが元気になっていくこともあるはずだ。

ミスターメリー、水谷孝次は東北にメリーを届け続ける意味をこう語っていた。

今、人々は「笑顔」を何より必要としていると思う。そこで僕はすべてを切り捨て、その最大公約数の笑顔だけを伝えるようにしてきた。 
MERRYな笑顔は、人々の心のバランスをとり、癒し、元気づけてきたのではないか。 
笑顔のための笑顔。あたたかさ、やさしさ、平和、そしてMERRYな気持ち・・・今の日本において最も欠落してしまった心。 
幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ。 
「〝311〟あの日からのデザイン」(『メリーコラム』2012年3月5日)


〈福島Merry Land〉に持ち寄られたストーリーは、幸せなものばかりではなかったのかもしれない。
それでも笑ったら幸せになれるのだ。
ここに、水谷さんの唱える21世紀の新しい概念、〈笑顔主義〉の本質がある。


福島の小学生10万人のストーリー。
その親たちのストーリー。
失われたストーリー。これから生まれるストーリー。

水谷孝次のストーリー。
柄本綾子のストーリー。
福島の民放4局のストーリー。
〈福島 Merry Land〉を訪れたボランティアのストーリー。

ストーリーが集楽して、メリーなカタチができた。
そのカタチはメリーな〝生き型〟を孕んでいた。
孕んでいたものを産み落として解体したはずだ。
新しいストーリーのために。

今、メリープロジェクトは次のストーリーを始めている。
〈福島発!ちきゅうっ子1億人笑顔計画〉

あのカタチを見た者は、そこで感じたことを心の深いところに納めたはずだ。
それぞれの〝生き型〟に、共感笑顔の種が播かれたことと思う。

僕自身にできることは、こうして書くことしかない。
他人のフレームを借りずに自分の目で見たことをストーリーに納めておくこと。

フクシマは、まだ欠落を抱えている。
えいじは、僕を福島第一原発から10キロの欠落現場に連れて行ってくれた。


欠落をも、構成要素のひとつとして〈福島 Merry Land〉は成立しているのかもしれない。
まだまだ問題はあるはずだ。
町ごと引越せざるを得なかった双葉町。
「被災者帰れ」という落書きが書かれたいわき市。

それでも、まずは笑顔になりましょう! 
ミスターメリーの願い、(絶対的)笑顔主義がここにある

笑顔になれば、メリーなことが実現していく。


あなたにとってメリーとはなんですか?
これが、メリープロジェクトの根源的な問いかけだ。

日々、気持ちが揺れ動く僕は、いまだにうまく答えることができない。
だが、〈福島 Merry Land〉での僕のメリーは答えることができる。

MERRYな生き型を目指す縁脈の脈動を確かに感じたこと。

えいじが来てくれたこと。


仲間がそばにいてくれたこと。


    夕焼けに向かって
    福島の子どもはロングパスをする
    この先の歴史へ
    この街の季節へ

    「ロングパス」(『ふたたびの春に』和合亮一)


今回も思い込みの激しくて長い研究レポートを読んでいただき、ありがとうございました。

南相馬と飯舘村に関しては、まだ書きたいことがあります。次回のレポートとさせてください。