2016年11月9日水曜日

宮古島で電通の夢を見た

まず夢である。
10月30日、宮古島5泊6日の旅から帰ってきた夜、すばやく寝た僕はまた夢を見る。
今回の旅も楽しかった。出会いがあり発見があった。でも見た夢は悪夢に近い。何度かフェイスブックにアップしている電通時代の「間に合わない」夢シリーズだった。

宮古島と電通系悪夢の文脈レポートを書いて、言葉を外にださないと、また悪夢を見そうだ。
書いて、頭に滞留しているものを腹におさめてしまおう。
人は言葉で語って初めて、体験を腹におさめます。書くことで自分と距離を取ってこそ、感情の激しい波の下に潜り込み、底に潜んでいる本質を見つめられます。
(『本の未来』富田倫生/青空文庫)
帰ってきた日に見たのは、こんな夢。

ある外資系クライアントのCM撮影をしている。なんだか難しそうな商品撮影だ。プロダクションではなく、優秀なCR(クリエーティブ)局員のSがあれこれとディレクションをしている。でもうまくいかない。すでに午前2時。この撮影がいつ終わるのかは分からない。立ち会っているクライアントは、こんな時間なのに他の代理店と電話をしている。どうやら別件のゲラチェックをしているらしい。(註:ゲラとはCMに入れるスーパーのレイアウトをした紙のこと。僕の夢は古い時代のCM制作が多い)。
そして大きな声で見積の話をしている。そしてなぜか僕にその見積の整合性をたずねた。「他の代理店の仕事なんて知らねえよ」(ここは東京弁が似合いそう)、と思いつつも僕は誠実そうに整合性があるようにお答えする。
そこに通りかかったのが、大先輩のOさんだ。なぜかそのまま撮影に立ち会ってしまう。クライアントがOさんにあれこれ声をかけたので、帰れなくなってしまったのだ。
早く帰ればいいのに、不器用な人だ、と僕は思う。
夜は更けていく。撮影はうまくいかない。クライアントたち(なぜか何人も立ち会っている)は中断して打ち合わせをしようと言う。どこかで珈琲でも飲みながら。でも、深夜3時の北新地(なぜか)で、そんな場所があるはずもない。でもクライアントはあてがあるという。ついた場所はカラオケボックス。でも満室である。クライアントは待つ。露骨に先客にプレッシャーをかけながら。やがて寝ぼけまなこの先客が出てくる。ようやくカラオケボックスに入れる。僕はトイレに行きたくてしかたがない。トイレ、トイレ、トイレ……。そこで目が覚める。

宮古島にいたときはこんな夢を見た。

あるCMのMAをしている。これも古い時代のCM制作の夢だ。MAとはMaster Audio のこと。さらに昔はダビングと言っていた。映像を編集したあと、音楽、ナレーション、SEなどを録音スタジオでミックスして音声を完成させること。CM制作の最終工程。
そのMAをするために、僕は年老いた男性ナレータの手を引いている。なぜか階段を降りながら。苦労しながらそのナレーターの声を録る。MA自体はうまくいったようなのだが、クライアント試写用のテープをつくるときに何らかのトラブルがあったようだ。
僕はVHSではなく、¾インチのテープに変えて試写したいと主張している。それでも何かトラブっている。起きてすぐに書きとめなかった夢なので、さすがにディテールは忘れた。
(註:VHSももう死語か。家庭用ビデオ再生機で使用された½インチ幅のカセットテープ。¾は当時の業務用テープ。大きな再生機が必要だった)

いずれも電通時代の、しかも初期の頃の夢である。
なぜ、宮古島まで行って、こんな夢を見るのか。どうやらこの頃、僕は電通に引き寄せられているらしい。


宮古島に行ったのは自分の意志ではない。
ここのところ、長男一家は宮古島にハマっています。もれなくあんちとりゅうちもついてくるわけで。そこに山の神が着いて行くと言い、宿六(役に立たない亭主のこと)もお供しました。そういうことで名残りの夏休みであります。
2016.10.26 田中文夫on facebook
宮古島行きが決まった頃に、そのことをフェイスブックに投稿したら、反応してくれた女性がいた。ずっと江馬民夫さんに寄りそっていたYさんである。秘書のような存在だった彼女は「エマじいは宮古島が大好きだった」と僕に教えてくれる。特に神事や祭祀に興味を持っていて『スケッチ・オブ・ミャーク』という映画を真っ先に見にいったという。

江馬民夫さん、2013年1月12日帰天。享年82歳。

電通時代の僕が一番お世話になったキャメラマンでありプロデューサだった。
だが、長い付き合いのなかで、江馬さんと宮古島の話をしたことはなかった。
それはそうだろう。僕自身は宮古島に興味がなかったのだから。

この島の文脈を調べたのは今回の旅の直前だった。息子まかせの旅をするとき、僕はあまりガイドブックを読まない。一夜漬けで情報をとったとき、「大神島」という言葉をキャッチする。ここだけは積極的に行きたい、と思う。
そして、Yさんが薦めてくれた那覇の出版社、ボーダーインクの『読めば宮古!』を手に入れた。


宮古島には関西電通CR局の後輩が会社を辞めて帰郷していることもフェイスブックで知っていた。
でも、これは息子の背中を追いかける旅だ。彼のプランにしたがい、姉と弟、ふたりの孫とできるだけ行動を共にすることに決める。後輩に連絡は取らなかった。

かくして僕はじじばか全開で島を旅する。
琉球泡盛の多良川酒蔵で弟が成人したときにいっしょに飲むための洞窟貯蔵酒までキープする。17年後に呑むための酒である。そのとき、僕は81歳。江馬さんが亡くなった歳に近づく。


旅の最終日、息子一家とは別行動で大神島に向かう。山の神もついてきた。

ずっと晴れていた空がこの日は風を吹かす。時折、雨も混じる。サトウキビ畑がざわわと揺れている。
それにしても宮古島の畑は一島総砂糖黍になっている。沖縄製糖がすぐに換金してくれるからだろう。ヨソモノが口出しすることではないが、半農半X研究所、主任研究員としては少々、物足りない風景である。

強風の中、島尻漁港に着く。フェリーを待つ。10月29日は、大神島の神事があるそうで、山の七合目までしか行けないと聞いていた。ところが、待合室にいた島人の話によれば、神事は明日で今日は「遠見台」まで登れるという。

海を渡る。風の割りには揺れない。波が立たない航路を知り尽くしているようだ。
大神島は「おおがみじま」。奈良の大神神社は「おおみわじんじゃ」。後者は山全体がご神体として知られる神社だ。であるなら大神島は島全体が御神体なのだろう。


島で唯一の食堂、おぷゆう食堂の下地さんにガイドをお願いする。なにしろ立ち入ってはいけない聖域があるのだから。
神事は明日、今日の夕方からは、おばあが山籠もりの準備をするので遠見台を登ることはできないが、午前中なら大丈夫とのこと。
神域といわれる場所に来ると僕は興奮する。どうやら山の神も同じ気持ちのようだ。


海抜74.5メートルの遠見台に登る。途中に神の岩と樹がある。


海を見下ろす。
間違いない、江馬さんはここに来た。僕には何の霊感もないが、それは分かった。


僕の「大神島に渡る」投稿を見たYさんがリアルタイムに写真を送ってくれた。
陰の中にエマじいの首から上が写っている。不思議な写真だ。
小さな船「シマヌかりゆし」で江馬さんも僕も島に渡った。
懐かしくて寂しい。江馬さんと大神島の話がしたくなった。


大神島の神は親神様と呼ばれている。火と水をはじめとする5体の神らしい。
それは高天原にいたとされる神々とは別系統だろう。
彼女と彼は自然神。この場合の「自然」は「じねん」と読みたい。おのずからそこにいる神々。山川草木、そして岩に宿る神。

そうであれば、大神島の神もまた国つ神なのであろう。
遠い昔、南の方から海伝いに日本列島に来た神々は、宮古島をステッピング・ストーンとしたと思われる。踏み石が気にいって留まった者がいても不思議ではない。

石灰岩と風化花崗岩の違いはあれ、宮古諸島と出雲には同じく巨石信仰がある。このあたりの文脈研究は宿題にしよう。

自然神を拝むための場所を「うたき」という。
その漢字は「ごこく」と書く、という下地さんの言葉を聞いて僕はますます興奮した。
「五穀」と書いて「うたき」と読む、と文脈家特有の早とちりをしたのだ。いくら宮古言葉が独特でも、これは牽強付会(けんきょうふかい)というやつだ。
自然神に五穀豊穣を願うための「うたき」を「五穀」と書くなら、できすぎた話。
もっとも現在の宮古には五穀はなく、砂糖黍しかない。


「うたき」は「御嶽」と書く。これを下地さんは「ごこく」と発音したわけだ。

大神島御嶽への入り口

かくも無知なまま、宮古島ツアーをしていた僕だが、江馬さんを通じて電通時代のことはしっかりと思い出していた。
そして大神島に渡った日の夕方には後輩と会う約束もできていた。僕のフェイスブックを見てコンタクトしてくれたのだった。

江馬さん、宮古に帰った後輩、それだけでも宮古島で電通の夢を見るには充分なのかもしれない。

いや、本当のことを言うと、電通時代のことを忘れるはずはない。なにしろ64年間の人生で36年間過ごした会社なのだから。

2010年6月30日に会社を辞めてからは、電通のことは封印してきた。電通系人脈とはほとんど付き合いはなかった。盟友原田明を除いては。
この6年間、いろいろなところで自己紹介をしてきた。そのときに自分から電通と言うことはあまりなかった。あっちの世界を引きずっていたら、こっちの世界とはなじめないからだ。

ただし、拙著『消えた街』と『出雲國まこも風土記』の著者プロフィールには電通関西支社と明記してある。そのせいもあって、最近は、自己紹介の場にいる誰かが「元電通」とフォローしてくれることもある。
隠しても仕方がないことであるが、盟友がアドバイスをくれた。僕が、この先、本を書く時、本文中では「広告会社」と書いた方がいい、と。


確かに「電通」には色が付きすぎている。いい意味でも悪い意味でも……と言いたいところだが、最近、電通は悪の巣窟になったようである。

10月8日、高橋まつりさんの過労死自殺のニュースを知った。ずっと気になっている。それが宮古島で電通の夢を見る遠因になっていることも間違いない。

高橋まつりさん。女性、新入社員、東大卒、美人などの余分な情報は要らない。24歳の個人が自分で自分を殺した。個が全体に圧迫されて死を選んだ。僕の目の前には、その冷厳な事実があるだけだ。
自殺を自死と言い換えようとする人びとがいる。でも自殺は自殺だ。

ネット上では、まつりさんに関して様々な情報が氾濫している。僕もほんの少し、書きたくなった。だが、その前に何よりも合掌しよう。ご冥福を祈ろう。

宮古島はスピリチュアルな島だと言われている。「スピリチュアル」とは、様々な文脈がつきまとう言葉である。
宮古島の旅から帰って、自分なりの「スピリチュアル」の定義ができてきた気がする。
僕にとっての「スピリチュアル」とは「メメント・モリ(memento mori)」、すなわち「死を想え」である。

宮古島で「死を想う」。この島は「メメント・モリ」を誘う島のようだ。宮古空港で見つけた『ぴるます話』には、その種の話が満載されている。


ごく親しかった江馬民夫さんの死を想う。見ず知らずの高橋まつりさんの死を想う。
僕の無意識に詰まっている様々な死を想う。

高橋まつりさんの自殺に関しては、前田将多さんのコラム「広告業界という無法地帯へ」(月刊ショータ/2016-10-20)という記事が本質をとらえていると思う。

前田さんは電通関西支社のCR局で15年働いた後に会社を辞めたという。90%共感する。

午後10時に消灯しても問題は解決しない。サービス残業が増えるだけだ。深夜、会社から強制退館させられた社員は、下請け会社に行く、または自宅に仕事を持ち帰る。なぜなら、期日までに片付けなければならない仕事が無制限に流入してくるからだ。入り口を制御しなければ、出口は氾濫し続ける。

以下は当コラムからの引用である。僕は2010年6月までの電通しか知らない。この6年間で電通は昔の企業風土を失ったようだ。詳しくは分からないが。
電通はグローバル化を推進していて、外国の大きな会社を買収し、取締役に外国人を招き、会計年度まで海外に合わせて三月から十二月に移した。外ヅラだけグローバル企業を取り繕い、内実は昔ながらのドメスティックなやり方で、現代ならではの非人間的な組織運営を進め、どうするつもりなのか。
欧米の広告会社がどうしているのかは知らないが、グローバル気取りするなら、仕事の前に契約書でも取り交わして、することとしないことと、できることできないこと、その料金表を提示して、それを遵守したらどうなのか。「働くな。しかし任務は死んでも完遂せよ」と、社内の締め付けを強化して何かが解決するのか。
 広告界にもルールはあるはずだ。協会とかあるなら、広告主へのベンチャラ団体、内輪の親睦団体にしておかず、ルールを明文化することに寄与でもしたらどうなのか。四代社長、吉田秀雄が作ったメディアビジネスの枠組みで大儲けしてきたのだから、次は業界で働く人が命を落とさないための基本的なルールを広告に関わる全ての企業に説いたらどうなのだ。
少し、僕の考えを補足しておきたい。1974年から2010年までの電通時代経験値の範囲で。

「吉田秀雄がつくったメディアビジネスの枠組み」とは端的にいえば「民放テレビの番組CMとスポットCMで儲ける仕組み」である。
僕が電通から脱藩した2010年当時、電通はマスメディアだけの広告ビジネスに限界を感じて、インターネット広告でもビジネスチャンスを拡げようとしていた。僕はそういう部署でのクリエーティブ・ディレクターをしたこともある。

でも、インターネット広告では儲からない。儲からない部署は人員を減らされる。高橋まつりさんがいた部もそういうことだったのだろう。

マス広告で大きな利益を上げてきた電通。だが、ネットの世界では利益を上げる方法を発見することがいまだにできていない。したがって効率というシステムの必然により人員削減となる。何しろ大企業の人件費はコストとして計上されるのだから。

さらに、ネット広告の実績報告分析作業というのは、時間がかかるが、本質的には単純労働ではないか、と誤解を恐れずに言ってしまおう。
前田将多さんのコラムはいわゆるクリエーター(僕はこの言葉があまり好きではないが)の視点で書かれている。彼らの仕事への矜持が伝わってくるし、そのとおりなのだと思う。

でも、高橋まつりさんが課せられていたことは仕事ではなく作業であり「やりがい」などというものとはほど遠いものではなかったのか、と愚考する。

僕は2010年6月30日に電通関西支社のフラッパーゲートを出た。社員証を返したとき、インターネット広告の世界で苦労を分かち合ったHさんと出会った。ハグした。泣いた。

Hさんも2015年に早期退職して綾部に移住した。今年の春、はじめて彼の半農半Xハウスを訪れて酒を飲んだとき、当然のように電通時代の話になった。
僕はしゃべりながら、気がつけば涙を流していた。6年前にハグしたとき、彼と話したかったことがあふれ出てきたのだろう。

記憶を封印するというのは、ネクストステップに行くときには必要なプロセスだ。
でもたまには封印を解かないと閉じこめられたものは、毒素をはらむこともある。Hさんと飲んでデトックスができたのはありがたかった。
Hさんなら、高橋まつりさんが置かれていた立場が僕よりも分かるのかもしれない。
彼女はデトックスできる相手もなく、自分を殺してしまった。ひたすら哀しい。

電通時代の晩年、僕は管理職というものだった。36協定に違反した部下の始末書を何枚書いたか分からない。始末書にはいつも「人員増を求む」と書いていた覚えがある。願い事は叶ったり叶わなかったりだった……。

もはや僕の知っている電通は「古き良き時代」となってしまったらしい。見知らぬ人の自殺について、現在の僕が何をどういっても意味がないことかもしれない。

ただし、しかしながら、僕たち電通で口に糊をしたことがある者は自らにこう問いかける必要があるのではないか。

「もし自分が彼女の上司だったら、あるいは同僚だったら、彼女の自殺を止めることはできたのだろうか?」


宮古島は「メメント・モリ」の島だというところから、随分、文脈が飛躍してしまった。
コンテキスターというのは難儀な商売だと思う。でも、その書いたものを読んでくれる人はもっと大変なので、このあたりで終わりにしたい。

とはいえ、こんな小難しいことをずっと考えながら島旅をしていたわけではない。
最終日以外は、シマー(泡盛)をロックでたしなみながら、心地良い眠りを楽しんでいた時間も長かったのだ。今ある生を言祝ぎながら。


旅の最終段階で、電通時代の後輩に会う。
元気そうで何より。
彼は広告会社というソフト産業から島のインフラを担うハード産業の経営者に転身した。生活は電通時代ほどタフではなさそうだ。それに宮古島の風土と彼の風貌はみごとにマッチしていた。



「タヤでなければ生きられない。しかしヤパーヤパでなければ、生きていく資格がない」
(『読めば宮古!』さいが族/ボーダーインク/2002年)

みんな、タフに優しく生きていこう。そして、お迎えが来るまでは死ぬなよ。