2016年12月28日水曜日

国つ神と半農半X・安来篇

〈眞知子の世界〉をのぞきにいく


年の初めに奥出雲のことを書いた。年の終わりには安来(やすぎ)のことを書こう。
島根県は東西に長い。東の端の安来と西の端の吉賀町とは直線距離で170キロある。
安来は奥出雲の北東35キロだ。

2016年、文脈家の行動範囲は狭かったのか?そんなことはないが、それはまた別の話だ。
西の方はとっくに調べがついている。あとは情報を再整理するだけだ。

遅れに遅れている『国つ神と半農半X』原稿を仕上げるために、僕は(ぼろぼろになった)島根県の地図を眺めていた。『出雲國まこも風土記』の初稿を上げたお盆の頃。
本として完成させるときには、場所で章立てをしようと思っているからだ。

どうも東の端に気になる地名がある。安来だった。米子道から山陰道に乗り継いで松江までという通い慣れたルートの途中にある。野津旅館に通うようになった初期は9号線で安来を通っていた。

安来の足立美術館は観光バスの定番コースだ。そして安来節。これはドジョウすくいの仕草であるが、砂鉄を拾い上げる動作を現したものだ、という説もある。奥出雲から連なるたたら製鉄の流れの最下流が安来である。
といっても、僕は半農半X研究所の主任研究員だ。たたらの話はサブストーリーである。

安来にも半農半X的生き型をしている人がいた。結局は人だ。
2016年8月26日、文脈家は西村眞知子さんに会いにいく。

眞知子さんが気になっていた。不思議な文体で綴られる「眞知子のブログ」。
その8月14日の投稿に映画『つ・む・ぐ~織人は風の道をゆく』のことが書いてある。

自らが主催した上映会終了後の挨拶で眞知子は泣いた。はじめて人前で。二十年前に亡くなった「お父ちゃん」のことを思いだして。扉が開いて奥の方にいたものが出てきた。

『つ・む・ぐ』なら僕も松江で見たことがある。
松江出身の吉岡敏朗監督が綾なす縁を織り上げた映画だ。そこには末期癌の終末医療をしている医師も登場する。
確かに素晴らしい映画である。でも「奥の方にいたもの」って何だろう?


「NPO法人眞知子農園」の設立趣旨書にはこうある。
年齢や性別、地域を越えて、同世代並びに世代を越えた人たちとのコミュニケーションの場並びに学習の場を提供するとともに、社会に出にくい子どもや大人に対し、農業を通じて自らが社会で生きる上で必要な力を備え、積極的に社会へ参加していけるための支援の場として活動する事に取り組みます。
このような活動を継続していくにあたっては、より多くの人に活動を理解頂くとともに、活動に参加して頂かなくてはなりません。そのためには、公正かつ透明性の高い運用を行い、社会的な信用を得て活動していく必要があり、法人化は急務であると考えます。
しかし、この会は事業目的も営利を目的とはしていないので会社法人の形式は似つかわしくありません。よって、特定非営利活動法人の設立が望ましいと考えています。皆様のご理解と、幅広いご参加、ご支援をお願い致します。
これだけを読めば、日本中にたくさんあるNPO法人のひとつにしか見えない。学習の場としての映画上映会では『地球交響曲』が奏でられている。

だが、「眞知子の世界」の奥は深かった。
その世界は生死の境も超えていたように思える。


その人は草を刈っていた。でーんと構えた身体に刈り払い機を持っている。
暑い日。真新しい看板には「なかうみ産海藻肥料使用農場」とある。

はじめまして、とお互いに挨拶する。でも実はすれ違っていた。
2016年6月1日の出雲大社。「まこも講演会&シンポジウム」の集合写真には眞知子さんも写っている。まこもの地下茎はここでも縁脈を繋いでいた。


七反七畝の農場では様々な人が働いていた。僕は写真を撮ったあと鎌を持つ。ほんの少し、草刈りのお手伝いをする。

ここでは身体を動かさずに昼飯を食べることはできない。話を聞くことができない。そのことは直感的に分かった。


風鈴の音とともに


眞知子さんは「NPO法人眞知子農園」の看板が上がったのを喜んでいた。
2015年10月13日、特定非営利活動法人設立。原邸という古民家をベースにしている。

まずは、首タオルをはずした眞知子さんを撮る。


ランチタイムになっても、眞知子さんの女友達、丸山さんは帰ってこない。鎌を持つと止まらない性格らしい。
でも慌てることはない。僕と眞知子さんと丸さんは、それから4時間話すことになるのだから。


今年の夏もゲリラ豪雨が激しかった。安来でも警報が鳴る。
天から激しいものが落ちてくるからこそ、眞知子さんは話しつづけたのかもしれない。

ときどき、風鈴がちりんちりんちりんと相づちをうつ。
聞こえてくるおんぼらとした出雲弁がここちよい。僕の耳は山の神三姉妹のそれに慣らされている。


山の神系のおばはんの話はワープ(跳躍)が多い。が、そんなことは気にならない。僕の仕事は文脈をつなぐことだ。

「なんであんたにそぎゃんことがわかるだあか?」
眞知子さんにそう言われるかもしれない。それでも僕は、この女性の「愛」「命」「縁」のダイアローグ(対話)を書きとめたい。

そうなのだ。おかあちゃんはいつも誰かと対話している感じがする。その相手はおとうちゃんとおとうちゃんに愛された自分が多いような気がしてきた。


話は中海(なかうみ)の環境問題から始まった。安来の国つ神は宍道湖ではなく中海に面している。

「一番、最初はゴミ拾い。捨てない大人をつくるには子供から育てないと。ゴミを捨てるような大人になってほしくない」
眞知子さんは〈ちゃーんとしたオトナ〉をいつも頭に描いている。

生活排水の流れこむ中海で「うまい赤貝が食いたい」という思いから動き始めた眞知子さんは「てんつくまん」と出会う。

2006年と翌年のモンゴル植林ツアー、そして2009年の南アフリカ共和国植林ツアー。
そこでは一緒に木を植えた子供たちに「だんだんねー」(thank you)という出雲弁を教えたという。そのやりとりが目に見えるような旅の話。

続けて、おとうちゃんと行ったアメリカの東西海岸とカナダの旅につながる。

眞知子さんの話は過去と現在と未来が混ざってひとつになり、おおらかにひろがっていく。それでも一周巡って、おとうちゃんに帰ってくる。

おとうちゃん、西村勝憲さんは1996年2月29日に帰天された。享年54歳。
四年に一度しかない命日。

2016年も閏年だ。20年目に僕は眞知子さんと勝憲さんの「夢と絆」をすっかり聞いてしまったわけだ。ご夫婦と寄りそっていた丸さんもはじめて耳にする話だったという。


眞知子さんの出雲弁は同じ言葉を繰り返していくことが多い。風でうたう鈴のようにリフレイン(反復)していく音感が心地良い。

そこに異質な単語が混じる。「結局、アスベストだった」。
アスベスト! それなら僕も詳しい。

アスベスト(石綿)は残酷な物質である。僕の友人の父上が同じく1996年に帰天された。
尼崎の街にクボタがまき散らしたアスベストが長い潜伏期間を経て中皮腫を発症させたからである。
僕は「尼崎クボタアスベスト」訴訟の応援団をやっていた。
以下、田中文脈研究所:「高度成長を観察する」より引用する。
アスベストの真実。
石綿は熱や火に強く、腐食しにくく、加工もしやすい。そして安価であった。
石綿は極めて微細な天然鉱物である。微細ゆえに風に乗って飛んでいき体内に取り込まれやすい。いったん取り込まれると劣化せず半永久的に体内にとどまる。
体内にとどまった石綿は、絶え間なく細胞を刺激し続け、やがて中皮腫、肺がん、石綿肺などの石綿疾患を発症させ、死に至らせる。
その潜伏期間は20年から50年。

眞知子と勝憲の30年


眞知子さんは1946年7月に安来の農家で生まれた。父上は百姓一本で家族を支えた。
娘は中学卒業後に和歌山の紡績工場に勤める。高度成長が始まった翌年、1961年には15歳にしてもう働いていた。

1965年、大阪で造船関係の仕事をしていた西村勝憲さんと出会い19歳で結婚。東京オリンピックの翌年である。
アスベストはこの頃から勝憲さんの肺に突き刺さっていたのかもしれない。
勝憲さんは1942年2月11日、山口県生まれ。

1966年、長男誕生。やがて次男誕生。
横浜に転勤。会社を辞めて「船の電気屋」として自営を始める。資金繰りに行き詰まり倒産。

1972年安来に帰る。30歳の勝憲さんが島根に行って一からやり直したい、と言い出す。島根なら俺がんばる、とのことだった。眞知子さんにとってはUターン。
勝憲さんは「陸の電気屋」となる。家の建築と内装に関わる。この頃の建築基準法では住宅の不燃材料としてアスベストが認定されていた。

1991年、癌が発見された。初孫ができた眞知子さんは保育園を辞める。その退職金を自由に使っていいよ、と勝憲さんに言われて行ったのがアメリカとカナダの旅だった。

「おとうちゃんはかっこよく生きてかっこよく死んだ」と眞知子さんは繰り返す。

野鳥とアマチュア無線とパチンコとバレーボールが大好きで、器用で陽気でなんでもできた勝憲さん。
ママさんバレーで付き合いのあった丸さんをはじめとして、他の女性にも優しかったらしい。
「にくめん人だった。可愛い人。眞知子さんとは早いこと別れることになっちょったけん、密度が濃かった」と丸さんはいう。他の奥さんの誕生日にも花を贈っていたそうだ。

「やさしいだわね、おんなには。ええかっこしいだし。ほんで、わたしにはマチコー、くそばばあ!って怒鳴っておいて」
勝憲さんを語るとき、女友達ふたりは腹の底から笑う。

僕は生きている勝憲さんに会いたくなった。今となってはどげしゃもならないが。

1995年11月1日、再度の入院。
その夜、夫は妻に言う。
「おかあちゃん、ありがとう。ありがとういわずに自分はいくのはできん。したいことはみんなした」
「したわよねー」と妻が笑う。
「最高の女房だったよ」

それから翌年2月29日までの4カ月にわたる闘病生活は壮絶なものだった。

アスベストによる死のつらさは、僕も友人から聞いている。
逝く人に対して「もういいから、がんばらなくていいから」としか言えなくなるそうだ。

眞知子さんは、僕と丸さんにすべてを語ってくれた。
死の18日前、2月11日。勝憲さんの54歳の誕生日。「骨と皮になった」おじいちゃんは三人の孫からお祝いをされた。
その後、勝憲さんは安楽死を望む。眞知子さんは医師に聞く。答えは「医師免許もっちょーだけん」。

旅立つ前の夜、眞知子さんは勝憲さんと添い寝した。
昔話をする。楽しかった話だけをする勝憲さん。
「あーだったね、こーだったね、相づちをうってるうちに、これ以上、がんばれ、とも言えん、とわたしが言ってしまったけん」
眞知子さんは策略に乗せられたと言う。

勝憲さんの「ほんなら行ってくる」が始まった。
「わたしはどーするの?」と妻が問う。「そしたら、どげいったと思う?」
「おかあちゃんはね、みーんながみてごしなあけん。おかあちゃんはみんながみてごしなあけん」。夫は最期の言葉を二回繰り返したそうだ。

54歳は早すぎる。現在70歳の眞知子さんは49歳で大きなものを失った。
強いこというけど、すごいさびしがりやの夫婦は、こうして別れた。

「なんとかする、なんとかするって。だいじょうぶ、なんとかするわー、ありがとーねって言いながら送ってしまったものだから、なんとかするしかない。わたし、するっていっちゃったもん。わたし、するっていったもんな」

「だけんね、なんか目に見えないものにずっとひっぱられちょう。流れるしかないです。流れちょうね、眞知子さん」
おかあちゃんは自分との対話をその後20年間続けているように思える。


てごされたら、てごする


てごする、という出雲弁がある。手伝うという意味だ。
てごしたらてごがかえってくるだあね。
「恩送り」、「ペイ・フォワード」、だんだんねーにだんだんを返すこと。

てごしたら、眞知子さんは家をもらった。現在、NPO法人のベースになっている古民家である。
原さんという老夫婦が住んでいた。眞知子さんの父上の友人だったという。


1996年3月2日は雪だった。勝憲さんの葬儀の日。
その人を慕う大勢の人がやってくる。葬儀場は十分な準備ができていなかった。

眞知子さんは緊張で能面のような顔をしていたそうだ。丸さんは言う。
「なに挨拶しちょうかきこえんだった。眞知子さんは開きなおっちょーと思った」
この二人は二十年前の葬儀を昨日のことのように話す。

近所の原さんは、早朝、耕耘機にハデ木を乗せてやってきた。新しいシートも乗っていた。葬儀場のふきっさらしの駐車場に受付を組み立ててくれた。雪がふっちょった、ちらちら。

「おじさん、おばさん、だんだんねー」
そのとき、眞知子さんはこの夫婦を最期まで面倒みよ、と胸の奥にはっきりと入れたそうだ。

その流れに乗って、原のおじさんが脳梗塞で亡くなったときにてごした。
2009年におばさんが心臓をわずらっているのにひとり暮らしをしていたときには、親戚でもないのに、勝手に救急車を呼んで入院させた。南アフリカ植林ツアーに行く直前のこと。

そぎゃんことは民生委員がすること、との声もあった。
「なんがー、わたしは世話になったけん、かえしちょうだけだわね。できーとこまではわたしがみーが」
ぽーんと眞知子さんが言うが、おばさんの最期にはてごできることもなくなった。

原邸は草ぼうぼうになった。


眞知子さんの人生になにかの転機が訪れたときには、おとうちゃんの声が聞こえるという。
勝憲さんの形は見えないけど、声は聞こえる。20年間、ずっとそうだという。

見えないものが見える人が眞知子さんのところに来たことがある。
「ここらへんにいつもいる。眞知子さんが動くたびに楽しそーによろこんじょーなーよ。いつもここにおらーがな」

「いまだー、いまだー、いまやれ、いけー、マチコ!」
お父ちゃんの声が降ってきたとき、マチコは決断する。


誰も住まなくなった原邸をもらってくれ、と言われた。
「わーっ、きたー!どーしよーどーしよーどーしよー?」ってすごく焦る。

それで、世話になっているお坊さんにも相談する。
「ご縁でしょうね、と一言いいなった」
もやもやがすとーんと胸のうちに入った眞知子さんは、2010年に家をもらった。

「ご縁の国」出雲。その東の端では縁で家が手に入る。
こう書いて、うらやましい、いいな、と思う人は少し甘い。
坂出と小豆島に空き家を2軒持っている僕には、家を引き継ぐ苦労がよく分かっている。


ちゃーんとしたオトナ


原邸をもらった眞知子さんは考える。
この家は子供たちを〈ちゃーんとしたオトナ〉にするために使おう。
相続の苦労をかけないよう、NPO法人をつくろう。

話は1996年までさかのぼる。
二十年前、勝憲さんの葬儀の一カ月後に当時5歳で、おじいちゃんが大好きだった孫と約束したことがある。

「おばあちゃんが死んだら、あんたが火葬のスイッチをおしなあよ。だけん、それまでにちゃーんとしたオトナになるだあね」

自分で言った〈ちゃーんとしたオトナ〉という言葉が自分の中にがーんと入ってきた眞知子さんは考え続ける。

眞知子さんは70歳にして、ちょんぼしオトナになった、と丸さんは言う。
お役所がうまく使えるようになったらしい。
そんな実用的なオトナになるより前に眞知子さんにはやることがあった。

さびしさを乗り越えること。
それもまた、オトナになるために必要な階段だったのだろう、と僕は思う。

勝憲さんは犬も大好きだったらしい。自分の死期を設定して、残される妻のためにブリーダーの施設を整えていた。ゴールデン・レトリバー、ラブラドール・レトリバー……。
ムツゴロウさんみたいに犬と暮らしたらさびしくないだろう、という気遣いだったらしい。

でも、犬小屋はわたしの「泣き場」だったと眞知子さんは言う。孫と犬、両方の世話に明け暮れる日々。

そんなとき、ラジオから〈五行歌〉が流れてきた。
今のなんだった? 山陰放送に電話する。
眞知子さんは歌と出会った。言葉の息づかいを大切にして五行で書く歌と。
新々・五行歌五則(平成20年9月制定) 
一、五行歌は、和歌と古代歌謡に基いて新たに創られた新形式の短詩である。
一、作品は五行からなる。例外として、四行、六行のものも稀に認める。
一、一行は一句を意味する。改行は言葉の区切り、または息の区切りで行う。
一、字数に制約は設けないが、作品に詩歌らしい感じをもたせること。
一、内容などには制約をもうけない。 
『すぐ書ける五行歌』(草壁焔太/市井社)
「気持ちのまま、いつも使っている言葉で」歌う自由な形式は眞知子さんのさびしさを開放していく。
仏壇に向かって五行歌を始めてつくった。
あなたの笑顔が
好きだから
あなたの笑顔が
見たいから
このままでいい
そして迎えた誕生日にも五行歌をうたう。
ピアスや花は
いらない
そっと抱いてくれる
あなたがほしい
わたしの誕生日
五行歌の縁で、彫刻家の佐藤信光さんと出会った。原邸の上がり口には木彫りの母子像がある。母の顔が眞知子さんに似ている、と思うのは僕だけであろうか。


時は流れて2003年、おとうちゃんの七回忌。
「それが過ぎたら、犬をもらってもらえると思った。もういいぞ、という感じ」
眞知子さんはブリーダーの施設と犬たちを譲る。

〈ちゃーんとしたオトナ〉作戦は新展開をした。

犬小屋から畑へ。そして眞知子さんは環境問題に取り組みはじめる。
ようやく、『国つ神と半農半X』の取材らしくなってきた。
話はじめて3時間以上たっていた。

〈ちゃーんとしたオトナ」はゴミを捨てない。川を汚さない。海を大切にする。
農薬、除草剤、化学肥料、そんな余計なものを土にいれない。微生物も人参も大根もすべての生命に感謝する。地球(ガイア)のことを想う。

2010年、新しい「遊び場」をもらった眞知子さんは、NPO法人眞知子農園に向かって走り始めた。

タマゴ大作戦


眞知子はダラだがあ、と両親に言われ続けてきたそうだ。娘は「このダラはあんたたちの子だよー」と言って父と母を指さす。

ダラとは出雲弁で馬鹿のこと。僕にとってはおなじみの「変人へそ曲がり」のニュアンスもあるように思える。

ダラは調子にのったら止まらない。
2015年、NPOが立ち上がったら「わたしだけのわたしではなくなっちゃった」。
やがて灰になる土になる
命のすべてが愛しいのです
人生にも
おまけがあることを知ったの
楽しまなくちゃ。
眞知子さんの現在は、「おまけ」というには、あまりに忙しい。
それでも、点滴を打ちながらでも「楽しまなくちゃ」と考えるのが、この人の本性である。

「今日も1日、楽しくあそびまーす!」とおとうちゃんに言って、眞知子さんは動き始める。
おっと、その前に〈六方拝〉もしなければ。
東西南北に天と地を加えて、ありがとうございます!


足元の
花の蕾にも
気づかず
わたしの心は
遠くの花畑

「遠くの花畑」とはカンボジアのことだった、と眞知子さんは言う。
地球を見渡して、外国の子供たちの支援をしてきたが、現在は「足元」を見る方向に転じた。

安来にも松江にも救いを求めている子供たちはたくさんいる。不登校児や知的障害がある子供たちと農作業をして収穫を持ち寄り、一緒に料理をして食べる。そのようにして、子供たちが自分の志を取り戻すこともある。

自分の孫に「ちゃーんとしたオトナになれ」と言った眞知子さんは、他人の孫にも同じ事を言い始めた。

他人の孫、タマゴである。タマゴ大作戦!
眞知子さんと丸さんのイメージはこうだ。

先頭は眞知子さん。麦わら帽子に首タオル、前掛けをして旗を持っている。旗には堂々、タマゴ大作戦のロゴマーク(まだできていないけど)。
その後にエゴエゴと続く自分の孫と他人の孫。眞知子さんのタマゴはアヒルのイメージらしい。
丸さんが「自分もいれてごせ」と行進に加わる。最後尾、落ちこぼれる子がいないように見張る役。エゴエゴガーガー、ジマゴとタマゴは鳴きたいように鳴き、歩きたいように歩く。
誰の子供も置いてきぼりにはしない!

「アジール」(Asyl)という言葉がある。避難所、聖域。
それはマイナスを背負った人がプラスに変わるための場所だと僕は思う。
眞知子さんに小難しい言葉は似合わない。しかし、現在を語りながら、どんどん綺麗な顔になっていくおかあちゃんを見ているうちに、「ここはアジールなんだ」という思いが文脈家の中で膨らんできた。

アヒルたちはアジールに逃げ込む。おかあちゃんアヒルがそこにいる。
育っていく。やがて羽ばたくこともある。アヒルにだって羽根はあるのだ。
いや、無理に飛ばなくてもいい。その足を地にしっかりとつけて前に進んでいけばいい。


島根県は「半農半X」と同じように「農福連携」施策も充実している。

農業と福祉の連携。
働く場としての農業と、働き手としての障がい者をつなぐこと。そこから多様性に富んだ地域コミュニティを生み出し、日本の食、経済、暮らしを元気にしていくこと。

眞知子農園で働く子供たちは「使命多様性」を持っているようだ。

ある男子は包丁で上手に野菜を切ることができた。
料理人の道もある、と眞知子さんが未来を語る。おかあちゃんの次男は松江で「そら」という中華料理店を開いている。
いくらでも紹介するけど、義務教育だけはちゃんとやりなーよ、と言うと学校に行きだしたそうだ。

別の男子は、畑で石灰とボカシを混ぜる。農作業に自信ができてきた。自分の畑を持ちたい、と言いだした。

女子もいる。普通の家庭の生活を眞知子さんに習う。自分にできるペースで。無理じいはしない。

みんな、眞知子さんの笑顔が大好き。眞知子さんが点滴を打つと心配する。
眞知子さんの言いつけにしたがって大きな声で挨拶ができるようになった。

子供を預けるなら親も先生も畑に来い、取材したかったら作業を手伝え!
眞知子さんは、理不尽なことをされると怒る。

ああ、よかった。鎌を持って草刈りを手伝って……。僕はほっとした。


眞知子の半農半X


眞知子さんの父親は農業だけだった。母親は40歳を過ぎてから運転免許をとって勤め人になったそうだ。それは専業農家なのか兼業農家なのか? どっちでもいい。

専業農家だって、世の中のために何かしたいという志、すなわちXをもっていたら「半農半Xという生き方」である。

半農半X研究所の主任研究員が偉そうなことを言うまでもなく、眞知子さんは、その本質を理解していた。

塩見直紀のことは知らないが、2003年に上梓された『半農半Xという生き方』とはどこかで接していたらしい。眞知子さんが環境問題に目覚めた頃である。

「わたし本読む人じゃないけど、農業だけじゃだめだ、というのがすごく頭に残って。農業だけでは人生おくれない」と語った眞知子さんはすぐに続けた。
「世のため人のためお役に立つ人間になります。お導きくださいますよう一心にお願い申し上げます」
そう唱えながら、四国巡礼に二回行ったこともあるそうだ。

世のため人のため役に立つ。これって究極にして普遍的なエックスですよね、塩見直紀さん。

一方、眞知子さんの半農生活はガイア(地球)を汚さないという大目標で動いている。そのために、EM菌(有用微生物群)を活用しているそうだ。

眞知子農園の有機肥料はすぐそばで生み出されたものを使った独自のものだ。
看板を上げたばかりの「なかうみ産海藻肥料」も入っている。はるか昔から、この地域で作物を育てるのに使われていたミネラル分が豊富な海藻が原料である。


米糠をベースにして、その海藻、EM活性液、油粕、鶏糞、籾殻、広島産牡蠣の有機石灰、安来市内の「砂流(すながれ)牧場」の牛糞、近所にある「ポニーの森」の堆肥などを混ぜ合わせる。
眞知子さんの経験値がオリジナルブレンド肥料をつくった。

僕が訪問した8月26日、眞知子農園は秋冬作の準備中。
堆肥の真ん中には籾殻が置かれて素敵な模様を描いていた。


あそこに播かれた野菜たちは、今頃、映画上映会やライブで農園に集まる客人たちの胃袋を満足させていることだろう。
眞知子自慢の「人参の味がする人参」を味わったら、他の人参が食べられなくなってしまうのでは? と余計な心配までしてしまいそうだ。

半農半天衣無縫


眞知子さんはどこか遠いところから湧き出てくる志を「縁(えにし)の場」で言葉にして伝える技を持っているようだ。

僕は何の技も持っていない。ただし、引き寄せる、あるいは引き寄せられる力はついてきた。
『国つ神と半農半X』の取材を続けるうちに。様々な田んぼと畑と自然の中で祀られたものを見続けるうちに。

この日、眞知子さんは僕に心を開いてくれたようだ。

長い話の最後に「で、田中さんは何を取材しに来たの?」と聞く。
「『つ・む・ぐ』を見て、眞知子さんがどうして泣いたのか知りたかった」と答えた。

僕の方からその質問をする前に、眞知子さんはおとうちゃんのことをしゃべってくれた。
聞きたかったのだが、聞きにくいと思っていたことを。

「おとうちゃん、しゃべっちゃった!」と眞知子さんは天を仰ぐ。


生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和

これは五行歌ではない。吉野弘の「生命は」という詩の一節である。
この詩を引用しながら、「半農半Xと別のことばでいえば関係性である」と塩見直紀は言った。

Xはクロスであり関係性である。半農半Xは自分と他者の関係性を回復していく生き方、自然(じねん)なものを関係づけていく生き方。

眞知子農園で僕は不思議なものを見た。水槽に浮かぶ生命が関係性を結んだ姿。
生命の背中に生命が乗っている。


あなたの背中
いっぱいいっぱい
見たの
わたしは
どんな背中を
眞知子さんの五行歌を聞く前に見た生命の姿を見ながら僕は思う。
おかあちゃんの背中は広すぎる……。

おかあちゃんはおとうちゃんに後ろからハグされている。強く永遠に。

西村眞知子は「半農半天衣無縫」である。
自然のままに美しく完成している。