2017年11月14日火曜日

国つ神と半農半X・中締め篇

※やがて本編に接続する文体で書いているので敬称略の部分もあります。

もうすぐ脱稿する

『国つ神と半農半X』を書き続けている。書き続ける意志と書き上げる自信はある。どうやって出版するかは脱稿してからだ。書かぬ原稿の出版算用をしても仕方がない。

基本的にはタイムラインに沿って章立てをしてみた。始まりは2010年6月。僕が広告会社を脱藩したタイミングである。ではエンディングはいつにするのか?これが悩ましい。今は2017年11月である。

島根県内を東から西まで取材したのは基本的には2015年。でも諸行無常は世の常、取材した人も物事も動き続けている。そこのフォローを始めたら本書にはエンドマークが現れなくなるだろう。
「永久の未完成これ完成である」(宮澤賢治)といえども、本というパッケージにする以上、どこかでケリを付けなければ。
ブログは永久のβ版でいいのだけど、本には句点が必要である。

そもそも、僕の書いていることは本のジャンル分けからしたら何になるのだろうか。エッセイ?ルポルタージュ?評論?
正直なところよく分からない。当研究所の初期に書いていた「文脈日記」であればエッセイなのだろう。だが個人的日記を本にしても僕を知っている人にしか興味を持たれないと思う。

ジャンルよりも書いている情理が長い射程で読者に届くかどうかが問題である。
この7年間で極私的に見たり聞いたりしたことが、ある種の普遍に繋がるのかどうか。僕の文脈研究の根っこには、そういう思いがある。

今のところ、見出しは以下である。
〈始まりは綾部〉
〈塩見直紀と綾部の型〉
〈プレ半農半X時代〉
〈卵が割れた〉
〈締切のない夢は実現しない〉
〈本との出会いは本当の出会い〉
〈2011年、春が来た〉
〈「島根の半農半X」事始め〉
〈311がやってきた〉
〈ニワカ百姓修行〉
〈311って何だったのか?〉
〈「日本の文脈」は変わるのか?〉
〈「本を書く」というタイムライン〉
〈綾部全文脈研究〉
〈そして主任研究員になる〉
〈半農半Xと政治的文脈〉
〈半農半Xとは?主任研究員として〉
ここまではほぼ書き上げている。
以上のコンテンツに〈環境農業を巡る短いサマリー〉と〈極私的国つ神論〉を加えたら一気に〈国つ神と半農半X(ライブ篇)〉として取材部分に文脈が繋がるはずなのだが。
ただし、今、文脈レポートとしてアップされている取材は2015年の話である。
やっぱり「なう」がほしい。「なう」は死語だと言われても、今を書いておかないと……。
このような思いから僕は新しい取材を始めた。
なんとしても今年中に『国つ神と半農半X』を中締めするために。

2016年タイムライン

新取材の話をする前におさらいをしておきたい。
島根に半農半Xがやってきたのは2011年3月6日。
この日、塩見直紀が初めて松江で講演をした。その直後、島根県農林水産部次長(当時)だった松本公一は塩見にお願いをした。
「半農半X」という言葉を「農業プラスアルファ事業」の新しいネーミングとして使わせてください。
これが「島根の半農半X」ことはじめだった。


それから5年後、2016年2月6日に「半農半X5周年記念講演会&シンポジウム」が開催された。場所は島根県西部の浜田市。僕は松本公一とともに参加した。
基調講演はもちろん塩見直紀。そして浜田市と吉賀町(よしかちょう)から2人の半農半X(施策)実践者が生活レポートをした。


続くパネルディスカッションでは小田切徳美がコーディネータとして登場する。農山村を消滅させないための「田園回帰」を提唱している大学教授である。
ここでの話は全体的にはXを兼業として捉えた報告が多かった。あたりまえである。まずは「稼ぎ」をどうするかが移住者の優先課題なのだから。


塩見直紀は「稼ぎつつ家庭を築きつつ社会を変えつつ」と説く。志を貫くには生業(なりわい)の確保も大切なことだ。


だが、今の僕に「稼ぎ」について語る資格はない。風百姓として島根の半農半X者の取材を続ける僕が巡り合いたいのは、志としてのXを持っている人である。
結果的には、取材した半農半X者のなかで、施策としての〈半農半X〉を使っていたのは一人だけだった。

夜の懇親会は国つ神系縁会の常として楽しい酒が回ってくる。僕は「ふるさと島根定住財団」の藤原義光理事長(当時)の言葉をとらえた。「半農半Xはお金の話だけではなく志のことですよ」と藤原理事長は言う。それなら僕のテリトリーだ。さっそく理事長に自分のポジションとミッションを伝えた。


お金ではなく志の話をしたくなった僕は浜田駅前の「神楽」に行く。県庁に勤めていた頃に松本公一が馴染みにしていた居酒屋だ。島根県民の必読書『美味しんぼ・日本全県味巡り島根編』にも登場する名店である。ちなみに松本も同書の冒頭で紹介されている。


いつものように旨き酒と肴に酔った僕は「これも島根県民の必読書です」などと言いながら、「神楽」の大石恵子に『半農半Xという生き方【決定版】』をプレゼントしてしまった。

〈半農半X〉が「田園回帰」のうねりにのって広がっている情況をつかんだ僕は一気に本書の原稿を書き上げた……となれば綺麗に文脈が繋がるのだが、そうはいかなかった。
2016年は3月以降、『出雲國まこも風土記』(発行:里山笑学校/発売:今井出版)の執筆にとりかかることになる。
「まこも」は国つ神の草である。そのことに関しては同書を読んでほしい。
『国つ神と半農半X』のスピンオフストーリーの方が先に完成してしまったわけだ。


書くためには現場を踏まなくては、という難儀な癖のため、自分でマコモを栽培してマコモタケを収穫した。
そのことは半農半X者としてのキャリアにほんの少し厚みを加えた、と自負している。

島根の地域おこし協力隊

一方で地域おこし協力隊である。2009年度に総務省の支援により発足した同制度は現在も多くの「田園回帰」組に利用されている。島根県内でも地域おこし協力隊は半農半X施策実践者の五倍近くいるようだ。

必然的に、僕は「地域おこし協力隊なう」と出会うことになる。
それは2011年に「地域おこし協力隊の協力隊」と自称していたコンテキスターが引き寄せた、あるいは引き寄せられた現象だろう。

まして、僕は島根に半農半Xという言葉が導入された翌日にして東日本大震災の4日前、2011年3月7日に思い入れがある。
「村楽LLP設立準備サミット」が島根県飯南町で開催された日。小雪がちらつく中を、まるで青い春のような気持ちで車を走らせた日のことは忘れられない。

「村楽LLP」とは「全国地域おこし協力隊連合」構想であった。それは構想から有効な実践に移されたとは言いがたい結果に終わったが、文脈家の記憶を記録に遺す価値はあると思う。


そして、地域おこし協力隊の多くが半農半Xという言葉にも導かれて島根にやってきたはずだ。だって、そうだろう。
「日本で47番目に有名な島根県のど田舎で兼業農家やります」というよりは「ご縁の国出雲で半農半Xという生き方をします!」と宣言した方が本人のモチベーションは高まり、周りの共感も得られるはずである。

地域おこし協力隊と半農半Xは、月と兎のように仲がいいと思われる。
僕は2017年現在、島根の地域おこし協力隊として動いている3名に取材をお願いした。



隠岐の島町地域おこし協力隊・米倉ゆかり

ゆかりちゃんとは、まこもの縁脈力により繋がっていた。彼女は誰が言い出したか分からないが「まこも姫」と呼ばれている。『出雲國まこも風土記』を書き上げるうえで、ゆかりちゃんの話は重要な気づきを与えてくれた。

「八雲立つ出雲まこもの地下茎は島の根っことなって、縁脈を繋ぎ、関係性を浄化したがっているようです」
この結論部分が書けたのは、ゆかりちゃんのおかげである。


まこもに関する取材中に隠岐の島町で協力隊になることを知ったときは驚いた。
因果は巡る(いい意味で)のだ。

さらには隠岐である。島根全県取材、といいつつも実はうしろめたいところがあった。現在の島根県というのは出雲と石見と隠岐で成り立っている。
僕は意識的に隠岐を避けていた。隠岐は深すぎる。ここに突っ込んだら『国つ神と半農半X』は完成しない。そんな直感があったので、続編のために温存しようとしたのだ。

だが、今は確信を持って言える。本書の続編は無理だ。能力的にも体力的にも。
ならば、隠岐に関しても書けるだけは書いておこう。


何度も言及している松江の野津旅館は隠岐に根っこを持っている。山の神の父上は、僕が「隠岐の島」というと気分を害していた。
「隠岐の国と言ってごせ。国だがね」。確かに、あの島々は独自の国である。
根っこには墓がある。2017年8月、僕は山の神三姉妹のお供をして野津家の親戚巡りと墓参りをした。

隠岐の国は「島前(どうぜん)」と「島後(どうご)」という地域に別れている。今は隠岐の島町すなわち島後にフォーカスしよう。
島後は日本海に浮かぶ大きな島である。古来、海上交通の要であった。半島から人と文物が渡ってくるときの中継点となっていたのは間違いないだろう。


そして、島後は豊かな島だ。広い田んぼがある。そこにはハデ木が常駐している。田んぼのオフシーズンには海藻を干すそうだ。野の幸と海の幸が折り合っている。山は深い。猪と鹿はいない。山の幸もまた人のためにある。牛と馬がいる。
もちろん国つ神はおわします。それも基本的なカタチで。岩として樹として。


2017年8月24日。僕は島後の玄関口、西郷港で米倉ゆかりと会った。まずはまこもの話をする。前日、島を案内してくれたタクシードライバーは「島後にはマコモはない」と言っていた。
ところが、どっこい。えっ、こげなところに、と思うほど身近な場所に「隠岐國まこも」が風に吹かれていた。玉若酢命神社の神事にも役立っている真菰である。


その穂先には見慣れないものがある。細い軸から互い違いに実のようなものをつけている。「出穂だ!」僕が声を上げる。「わーすごいすごい!」まこも姫が続く。

マコモは稲科の作物である。だから米すなわちタネをつけるために穂を出すのはあたりまえだ。しかし、マコモには黒穂菌に感染してマコモタケという茸(きのこ)ができるものもある。僕が見てきたのは、すべてそうだった。
マコモタケができなければ出穂する。理論的には分かっていたが、見たのは初めてだ。「天は二物を与えない」現象を隠岐の国で確認したのだ。


まこも姫はまこもの話をするとき、オーラが出るように思える。その愛車のバックミラーから垂れ下がって揺れているのは麻の飾り物である。流れる音楽はボサノバ。


姫は自然を精製したものからできているのかもしれない。そんな仮説を持ちながら、ゆかりちゃんの車で島後を巡りつつ、協力隊の話も聞く。

地域おこし協力隊は行政の職員になるわけではない。仕事を「委嘱」されるだけだ。「委嘱」はときとして「萎縮」を生む。
彼女が委嘱されたのは、いわゆるお役所仕事だった。コンクリートの箱の中で慣れない行政文書をつくりながらも、ゆかりちゃんの心は野に放たれていた。
隠岐の海に、滝から流れる水に、水から立ち上るホタルの灯火に、稲にまこもに野の薬草に。

半農心? いや全農心がゆかりちゃんには宿っている。全農女子は隠岐の風と土で育った。生まれは松江市だが、母方の祖母が島後の西海岸、那久(なぐ)にいる。現在は90歳を超えているが、かつてはスーパー全農ばあちゃんだったらしい。そのまま飲める水源が近くにある田んぼと畑でつくる、つくる、つくる。米、大豆、小麦、菜種、蕎麦。したがって味噌も醤油もできた。牛も山羊もいた。

町育ちの少女は隠岐が大好きで、たびたび通っていたという。那久の村を流れる川の上流には「壇鏡(だんきょう)の滝」がある。ゆかりちゃんの中を流れる水の源なのだろう。


「自分らしくあるためには自然が身近になくっちゃ」。ゆかりちゃんは言う。
自然を身近にしたならば、「センス・オブ・ワンダー」が身につくのは、固定種のタネが翌年も発芽するのと同じくらいの確率だと思う。つまり、100%ではない、という意味なのだが……。

ちなみに「センス・オブ・ワンダー」とは「自然の不思議さや神秘さに目を見張る感性」のことである。歴史的啓蒙書『沈黙の春』の著者、レイチェル・カーソンが広めた言葉だ。
ゆかりちゃんのそれは、松江の田んぼで芽生えて隠岐の水で磨かれたようだ。
自然全般を語るときの彼女は本当に楽しそうだ。それは発芽率100%の真実である。


そして、さらに、本質的なことを語った。
「自然と環境が自分にあっているかどうかも大切だけど、誰と一緒にいるかもすごく大事なことだと思います」
これも「半農半X的生き方」の基本的マナーである。Xとは二本の線がクロスするカタチ、すなわち関係性のことでもある。

自然と人の関係、人と人の関係。それを深めていくためには、きっかけがいる。
たとえば、大豆は大豆としてあるときはバラバラの粒である。無関係だ。そこにある種のものが働けば、ネバネバの関係になる。それを納豆という。バラバラをネバネバに発酵させるのは納豆菌だ。バチルス・サブチルス・ナット―。

大豆がナット―になるプロセスはバラバラの個人がインターネットで結ばれてネットーピープルになるメタファーでもある、と誰かが言っていた。

閑話休題(それはともかく)。
なんと「まこも姫」は発酵の世界にも詳しい。関係性が浄化されるとき発酵というプロセスをともなえば、より緊密で腐らないものになるはずだ。

隠岐の風土の話から、いきなり「アスペルギルス・オリゼー」という単語が出てきた。日本麹菌のことである。日本の国菌といわれるこの子がどこから生まれるかによって、それが醸すものの風味が変わってくるそうだ。米麹は米の味、レモン麹はレモンの味、野草麹は野の味。
隠岐の土には独自の菌がいる。オキノウサギやオキサンショウウオや隠岐マコモがいるように。

ゆかりちゃんは隠岐の稲玉から麹のタネをとる。シャクナゲからも野草からも麹菌を取りたいという。
マコモを含めた隠岐の薬草と麹菌を同時進行で研究していきたい。ゆかりちゃんの展望が見えてきた。

今も昔もどこの地域でも「地域おこし協力隊」の課題は「三年後」である。
協力隊の任期は三年。その稼ぎがある間に卒業後の設計をしなければならない。
新規就農、勤め人、あるいは起業。様々な道はあるが平坦ではない。島後の港、西郷から聖なる山、大満寺山へ登っていくように。


「だけん、わたしがやりたいのは起業ではなく暮らしを楽しむことなんです」
隠岐の国で暮らしを楽しむ!
この豊かな島で。周りを明るく醸しながら。国つ神が好む律動に乗って踊りながら。
そして、暮らしを楽しむためには美味いものを食わなければならない。

ゆかりちゃんは「ヤナカケ」の魅力を語る。那久のおばあちゃんは醤油もつくった。その醤油を刺身にかける。刺身は海に泳いでいる。それをご飯の上に大胆に配置して湯をかける。刺身と醤油から海と大地の味が浸みだしてくる。おばあちゃんのご飯は大量消費されていく。
「ヤナカケ」は野津旅館のまかない料理でもあった。こちらも隠岐がルーツだったのだ。

暮らしを楽しんで食っていけたら最高だ。この場合の食っていくには現金収入も含まれる。大丈夫、ゆかりちゃんには「隠岐の善なるもの」がついている。それは「善き関係性」を繋いでいく力だと思う。

隠岐に残る古いものを醸して新しい道しるべとする。「懐かしい未来」を目指して。今、世の中には「田園回帰」を評価する文脈もある。そこに稼ぎの芽があるはずだ。

もうひとつ隠岐には受け継がれているものがある。「隠岐コンミューン」という歴史的事実をご存じだろうか。

「コンミューン」とは住民自治を目指す地域共同体のことである。支配者側からは「隠岐騒動」と呼ばれる蜂起は、明治維新・王政復古のカオスのなかで、自らの信念に基づき、上からの支配を拒否した革命運動である。
言いたいことを言い、やりたいことをやる、その貫く力は隠岐の人々に通底しているように思われる。

ときとして、それは「わしが、わしが」と自己主張の強いおっさんを生み出すが、ゆかりちゃんにだって、貫く力は備わっているはずだ。


米倉ゆかりは2008年、『半農半Xという生き方』の新書版が発行された頃から「半農半X」という言葉に親しんでいたという。僕はそれから2年後に「半農半X」と出会った。

先輩に敬意を表しつつ「では、ゆかりちゃんの究極のXは何?」と僕は定番質問をしてみる。
「わたしはまつりが好き。ハレとケならハレが好き。唄と踊りと美味しいものとお酒が好き」
「ならば、半農半まつり姫? 姫というとえらそうだから半農半まつり娘!」
と僕は例によって、適当なことを言う。

半農半まこも姫、というのが取材前のイメージだったが、この人はまこもだけにはとどまらない。「天晴れ!」と言いたくなる。
「半農半あっぱれ娘、発酵が好きな半農半しゅわさか姫!」さらに適当なことを重ねる。
まあ、このあたりは本人にとってはどうでもいいことで。取材した人の志を言語化したいコンテキスターの力量が問われるだけである。


隠岐の海と川と野とともにあり、国つ神がおわします神社のひとつひとつを愛おしむゆかりちゃん。出雲よりもさらに古層から信仰を育んできた隠岐の國の神々への造詣も深い。
朝鮮半島と出雲の間にあるがゆえの伝承と物語を発掘することも「暮らしを楽しむ」方法のひとつなのかもしれない。そんな彼女を訪ねて日本海を渡る友人も多いという。

ちなみに、ゆかりちゃんは綾部にも何度か行ったことがある。
「いいとこですね。でもやっぱり誰と一緒に行くか、そこで誰に会うか、仲間っていうのが大事だと思います」
この人は綾部でも豊かな縁脈を繋いでいた。マクロビオティックのカリスマ、若杉ばあちゃんルートだ。まこも縁脈ともいえる。大本ルートともいえる。



隠岐の土に根ざして、そこに息づいている善なるものを元に暮らしを醸していく。
米倉ゆかりは半農半発酵源である。



松江市地域おこし協力隊・豊田美智子

みっちゃんは僕と初めて出会ったときの印象をこう語る。
「いきなり現れて、畑の隅々まで写真を撮った変なおっさんがいた」
豊田美智子との変人比べはお互いさま。
何しろ、箕面の畑イベントで行灯にアインシュタインや吉本隆明やジョンレノンの言葉を書きこむ畑女子だったのだから。畑に文学をばらまく女子が変人でないはずはない。ここでも変人が変人を呼び、へそ曲がり連合をつくっていく。


畑の名は「マイファーム」。町のニワカ百姓に農業体験を提供する会社の15平米である。僕の半農半Xの小さな拠点だ。
みっちゃんはマイファームの「自産自消アドバイザー」だった。利用者とアドバイザーという関係を越えて、僕とみっちゃんはなんとなく気があったのかもしれない。

みっちゃんは畑にデザインをする。広告クリエーティブを生業にしていた僕は、みっちゃんのつくる野菜よりもそこに目がいっていた。
おもろい半農半デザイナーがいるな。味のある手描きイラストと文字の看板。近所の子供たちに受ける。お父様、お母様たちにも。たぶん。そして彼女がデザインした数々のフライヤーにも妙に気をひかれた。


2015年の話である。その頃、僕は「山の陰」に長期ロードに出ることが多かった。ロードから帰って箕面の畑で開催される素朴なイベントに参加するとほっとした。
ここが僕のホームなんだ、と。気楽に松江や島根の話をする。


「もし、そのあたりに興味があるのなら、ワタクシのブログを読むとよろしい」などと、たぶん上から目線で田中文脈研究所のことをしゃべっていたような気もする。

彼女がいきなり地域おこし協力隊になったのにも驚いた。しかも僕の大好きな町、松江だ。
2016年4月、松江市が初めて募集した協力隊の一期生、豊田美智子。
みっちゃんもロードに出た。いや、松江をホームにしてしまった。
これは取材しなければ。野津旅館のすぐそばだし。

隠岐の島町地域おこし協力隊を取材した翌日、僕は松江市役所玉湯支所に行く。
「まっちぇ」という看板にしたがって行くと、大きな部屋があった。そこは地域おこし協力隊事務室だった。いろんな協力隊と会ってきたが、10名の隊員が役所内でデスクを並べるスペースを持っているのは珍しいケースだろう。
ちなみに「まっちぇ」とは松江の出雲弁風味発音である。協力隊の愛称。ロゴのデザインはみっちゃんの仕業らしい。


デスクに人はいない。それはそうだ。地域おこし協力隊員がデスクにしがみついていては、何も起こせるはずがない。
みっちゃんは工作隊となっていた。松江のイベント「水燈路」のための行灯づくり。なんだか松江市役所になじんでいる。
半農半デザイナーだったのに、今は農的生活は自宅の庭に限られているそうだ。


島根の伝統産業を守り未来へ繋ぐ試み、それが現在の「みっちゃんミッション」だという。出雲民芸紙、手漉き和紙の新しい流れをつくること。アウトドアで使われている来待石にインテリアとしての価値を付加すること。島根の暮らしや信仰、ものづくりを体験するツアー開発。
おや、すっかりビジネスモードだ。


〈島根の半農半X施策〉ではなく、「松江の地域おこし協力隊」を選んだのは、フリーミッションだったからだという。そして、いきなり地域おこし協力隊になったわけでもなかった。

実は2014年には大分の地域おこし協力隊に合格していたのだ。ただ同時期に大阪の「森のようちえん」に出会って、マイファームと掛け持ちで働く。僕と畑であれやこれや話していたときにも彼女の心の中には常に協力隊があったようだ。


「地域おこし協力隊になりたかったんです!」と断言するみっちゃんは3・11で「変わった人」だった。東日本大震災と福島原発事故を見て、こう思ったという。

「やっぱり、あんなふうになったときに一番強いのは、自分で何かをつくって生きる糧にできる人たちじゃないですか。生き残るのは、そういうノウハウを持っているのは田舎だなって。都会じゃなく。根っこの部分で自分の頭を使う、そういう人たちががんばらないと、この国やばいよ!」
そうだ。やばいのだ。
3・11の影響で新天地に移住した人々とたくさん出会ってきた。3・11で日本は内面から変わったと言われるが、意外と変わらなかったというのが私の感想だ。
塩見直紀は『半農半Xという生き方【決定版】』の「出版10年を振り返って」で、こう述べている。
確かに「内面」はたいして変わっていない、と僕も思う。でも、塩見さん、内面も外面も変わった人もいます。その人たちは相変わらずマイナーで「変人」と呼ばれていますが。

塩見がこの文章を書いていた2014年、まさにみっちゃんは変わろうとしていた。

「頭おかしいやろ。20ミリシーベルトですよ。再稼働させるし。権力を持っている人たち、それでいいんだ、と思っている人たちを相手にするよりも、末端で自分の考えを持っている人とつながらな、あかんな」

みっちゃんは確信を持ってしゃべり続ける。その場所、松江市役所玉湯支所から宍道湖を挟んで北に12キロの距離には島根原発がある。ちなみに国宝松江城からは8.5キロである。


「3・11をキッカケに、なんかおかしいぞ、と気付いたんです。おかしなことは地域に行かないと解決しないぞ。地域おこし協力隊になったら日本を変えられる。田舎の片隅ですごく面白いことができそう。戦争とかも地域が頑張ればなくせるな。ファースト・ファッションみたいなグローバル化の波からも地域に行ったら逃げられる。地域から変えられる!」

みっちゃんは僕の『国つ神と半農半X』企画書を読んだかのように話す。
グローバル化とは世界をノッペラボーにすること。ローカルとはヒダヒダのある世界。山肌に刻まれた棚田のように。グローバルとは新自由主義、ローカルとは里山資本主義。グローバルな天つ神は上から民を平らげる。ローカルな国つ神は様々な民草とともにある。
国つ神は島根におわします。そして松江は小泉八雲に言わせれば「神々の国の首都」である。


「ほんと島根、すごい。こっちに来るまで、こんなすごいとこだとは思ってへんかった。歴史もすごいし人もやばくないですか? すごい人が多すぎてコンプレックスを感じるくらい」
松江市の地域おこし協力隊一期生にそう言われたら、宍道湖の夕陽もさぞお喜びだろう。

みっちゃんが人生を選ぶとき、当研究所の文脈レポートが少しでもお役に立ったのであれば、コンテキスター冥利につきる。

島根に来たということは半農半Xの本場に来たということだ。彼女は塩見直紀も綾部も知らなかったが、半農半Xという言葉は2013年頃に知った。それは3・11後にロンドンへ行きワーキング・ホリデーを体験後に帰国した頃だという。

ロンドンでは、ヨーロッパ初のオーガニック&ビーガン日本食レストランである「いただき膳」(ITADAKI ZEN)で働いていた。東アジアの農を支える哲学と命を支える食のことを学んだあとに、半農半Xと出会ったのは必然だと思われる。


「僕の知らないみっちゃん」が出てくる。マイファームの畑で気楽なことをしゃべっていたときとは比べものにならない深い会話をしている。
そうなれば、主任研究員も言いたいことがある。半農は土を愛する心。別に今、畑をしていなくてもいいよ。Xはクロス、関係性。島根用語で言えば「ご縁」。文脈用語で言えば「縁脈」。

豊田美智子は松江市地域おこし協力隊着任後、1年4カ月で島根内縁脈を急速に深化させている。そして「三年後」すなわち任期終了後も松江もしくは島根をホームにし続けると決めた。

どうやら「島根」のコミュニケーション・デザインをするつもりらしい。
コミュニケーション・デザインとは狭い意味のデザインを超えて、人と人をつなぐ設計をすることでもある。島根内縁脈を固めたみっちゃんは島根外縁脈をデザインしようとしている。おそらく起業を志しているのだろう。


僕が「あなたにとって究極のXは何ですか?」と問うたとき、みっちゃんは「うわあ~、一つの言葉では難しい」と答えた。
「とりあえず原発は止めたい」「松枯れを見るのが哀しい」「日本古来の風景を復活させたい」。と具体的に語った後に出てきたのが、「日本の根っこ」という言葉だった。

「島根の人たちが持っている日本人のルーツみたいなものを、ここ日本の根っこから全国にウィルス感染させていきたい!」

拍手するしかない。島根は「志間根」である。「志」はミッション。「間」は間柄、関係性、縁。「根」は根っこ。この美しい言葉使いは半農半X研代表が「島根の半農半X5周年記念講演会」の締めで語ったことの受け売りだ。


みっちゃんは「志間根」をデザインしようとしている。狭い意味でも広い意味でも。
僕の手元には「日本の根っこ」(The Roots of Japan)というイベントのフライヤーがある。地域おこしデザイナーの仕事だ。主催は出雲大社のすぐそばで「まないな」というベジカフェ兼出雲情報拠点を営む須田郡司と須田ひとみ。


基調講演「文化と魂が交差する聖地」(田口ランディ)、対談「出雲國の古層文化」(田口ランディ×須田郡司)、シンポジウム「古代出雲の風土から地域の未来を語る」〈歴史文化、定住、観光のプロたち)。

精緻なデザインの言葉を拾ってみる。
「磐座」(Iwakura)、「出雲國風土記」(Izuonokuni-Fudoki)、「踏鞴」(Tatara)、「真菰」(Makomo)「夕陽景観」(Sunset view)、「大山」(Daisen)、「三瓶山」(Sanbe-san)、「飯南」(IINAN)、「奥出雲」(OKU-IZUMO)、「安来」(YASUGI)、「松江」(MATSUE)、「宍道」(SHINJI)、「雲南」(UNNAN)、「出雲」(IZUNO)、「出雲大社」(Izumo-Taisha)、「来待石」(Kimachi Stone)、「玄米麺」(genmaimen)。

漢字で書いたら正確には読めないであろう言葉が手描きイラストとアルファベットで表現されていた。

いずれは、半農半デザイナーあらため半農半温故知新(learning a lesson from the past)の豊田美智子に「志間根」をデザインしてほしい。
素敵なイラストと英語での意味表記を添えて。
半農半X研究所主任研究員は伏して、そのようにお願いしたい。

みっちゃん、大丈夫だよ。
原子力発電所の大元になったのは一枚の写真。1895年にドイツの物理学者、W・C・レントゲン博士が女性の手を写したX線写真だった。この場合のXは疑問あるいは謎の対象を意味する記号としてのX。わずか122年前のことだ。そんな駆け出しの技術に「志間根の温故知新」が負けるわけはない。



飯南町地域おこし協力隊・霧生友孝

霧生友孝は半農半営業だと思った。
営業のことなら僕はよく知っている。広告会社時代にお世話になった。僕はわがままで気まぐれなクリエーティブ。僕が特にそうであったわけではなく、クリエーティブというのは一般的にそういう人種である。
クライアントとの間に立って制作物を納品まで持っていきお金の交渉をまとめるのが営業の仕事だった。

霧生さんの取材をしていると「バランス」という言葉がよく出てくる。山陰のグレーな空によく似合う言葉だと僕は感じる。さらにいうなら出雲弁はものごとを断定しない。
霧生さんの言葉はキレのいい江戸前である。そのあたりにも営業的地域おこし協力隊である彼の苦労がしのばれる。

飯南町の地域おこし協力隊に着任したのは2015年4月。
「三年後」が半年後に迫っている9月21日、僕は飯南町に向かった。


前述したように飯南町は村楽LLPの設立準備サミットが開催された場所である。
あの2011年3月7日以来、僕は飯南には来ていなかった。

村楽設立行事は、当時「島根の三バカトリオ」と自称していた人たちがプロデュースしていた。そのうちの二人が当時の飯南町の地域おこし協力隊。もう一人は雲南市の地域コーディネータ。彼は飯南と雲南の境にあるキャンプ場の管理人だった。

現在、それぞれが違う道を行っている。一人は実家の寺を継ぐため雲水修行中。一人は別の地域の協力隊を経て夢をかなえた。一人は消息不明。

僕は霧生さんと約束した場所に向かう。なんとなく見覚えがある道を走る。
ああ、ここはクラインガルテンのすぐそばなのか、と気がついた。クラインガルテンとは「小さな庭」という意味のドイツ語。滞在型市民農園のことである。町と村を結ぶ半農半Xの拠点ともいえる。

霧生さんは、そのクラインガルテンに住んでいるという。それなら話が早い。村楽LLP設立準備サミットが開催されたのは、そこのクラブハウスだったのだから。どうやら僕はセンチメンタル・ジャーニーに来たようだ。

取材場所の「うぐいす茶屋」に霧生さんが入ると、あちこちから声がかかる。その営業的気遣いが地域に浸透しているようだ。


まずはお互いのキャリアとスタンスを確認する。霧生さんは広告会社の営業だった。僕は取材する人の現在に興味があるので過去はあまり聞かない。ただし彼の場合はあらかじめ広告会社勤務を経て地域おこし協力隊になったのを知っていた。しかも現在、47歳。広告会社の「切った張った」経験を経て地域おこし協力隊に転身している。

はじめて霧生さんに会ったとき、その手は藁を編んだ。しかも左綯いで。注連飾り用の綯い方だった。その後、彼のキャリアを知ったとき僕はデザイナーなんだろう、と勝手に思った。そのたたずまいと繊細さが僕の知っている多くのデザイナーと共通している。

「デザインはどうやっても向かない。営業です。いろんなことをやります。制作が逃げたら営業がケツをふく。0から1を生み出すのはしんどい、むかない。ある一定の守るべきものがあってそのクオリティを上げていくのが好きですね」

霧生さんの言葉は明解だ。何度か逃げたこともある制作(僕のことです)は頭が下がった。「守るべきものを守る」というのが半農半営業の基本スタンスである。

地域おこし協力隊の中でも「大しめなわ創作館」での注連縄制作業務に特化しているのが霧生さんだ。棟梁から技を受け継ぎ、次世代への繫ぎ役になろうとしている。


出雲大社神楽殿。日本一の大注連縄。長さ13.5メートル、重さ4.5トンの注連縄が想像できるだろうか。大注連縄は飯南町の一町歩五反の田でつくる「赤穂モチ」という稲でできている。六、七年に一度、掛け替えられる神楽殿注連縄は2018年7月に新しくなる。飯南町注連縄企業組合はすでにその準備にかかっているそうだ。

霧生さんの協力隊任期終了は掛け替えの三ヶ月前だが、神楽殿大注連縄掛け替えには関わるという。というよりも、今回の掛け替えを現場で体験して、次の掛け替え(2025年頃?)を支えるメンバーになりたい……。「守るべきものを守る」道は遠い。


出雲大社の注連縄に関する文脈研究は完了している。玉垣内の本殿と摂社の注連縄は真菰。その他は稲。稲注連縄の中で最も巨大で有名なのが神楽殿のもの。
真菰注連縄は毎年、「出雲大社御本殿注連縄講社」により奉納される。神楽殿稲注連縄は、ここ飯南町の不断の努力によって支えられている。

『出雲國まこも風土記』の著者が縁脈の縒り合わせによって、霧生さんに出会ったことは必然の偶然なのだろう。あるいは偶然の必然。

元広告会社員同士で会話は深まっていく。霧生さんは長い間博覧会業務に携わっていた。たとえばテント立てのような現場仕事から自らの技を磨いてきた人だ。手仕事をしてきたのでなければ、藁を綯うあの手つきは身につかないと思う。

様々な現場の経験を持つ人は繊細な心持ちになる。
森林セラピストの資格を出雲に来てから取得した。ヘルスツーリズムの企画もしている。
都会で病んでいる人の心を田舎で癒す、などというステレオタイプの言葉では納まらない体験を霧生さんはしてきたのではないだろうか。僕はそんなふうに感じた。


もう東京を出ようと決心して移住地を探し始める。東京から出雲にIターンしたのは2014年。大社湾から見た三瓶山の風景が決め手になったそうだ。
三瓶山は『出雲國風土記』冒頭にある「國引き神話」の西の拠点である。出雲大社が築かれた「杵築の地」は三瓶山に綱をかけて「新羅の岬」から引き寄せられた。


注連縄が好きな人は神社も好きである。ここは断定してもいいだろう。霧生さんも僕と同じように「国つ神」に呼ばれる体質のように思われる。

「国つ神」とは親しい霧生さん。生き方用語であり島根の行政用語でもある「半農半X」と出会ったのは「ふるさと島根定住財団」の移住支援資料の中だったという。
「すげー言葉だな、と思いました」と語る彼は「稼ぎ」すなわち「ナリワイ」的な意味合いで「半農半X」と出会っている。

霧生さんは別に就農したいわけではない。なので稼ぎスタイルとしては「半農半X」とはいえない。だが、生き方としてのそれを彼は体得している。

半農は土に根っこを持つこと。Xは志。
東京にいるときから「クラインガルテン」に興味があり、自分で食べる物は自分でつくりたかったと言う。自然の成り立ちを見たかった、森に癒されたかった。

そんな霧生友孝に「究極のX」を訊いてみる。
長い間があった。何かのバランスを取っている。広告会社という「人の渦に翻弄される都市生活」から「自然を縒り合わせる村生活」へ。そこに営業的配慮をふりかける。自分の人生を翻訳している。その日の出雲の空は晴れていた。グレーではない。

「半農半……今を生きる……」
「手仕事と野菜仕事をしながら藁をかまうこと。全体として〈今を生きる〉こと。それくらいしか考えていない……」
それくらいって、霧生さん。「半農半今を生きる」って。まったく世に半農半Xのタネは尽きない。


稲科の藁を編む手仕事は縄文の昔からあったのだろう。今、飯南の森と畑と田で生きている伝承人は、その技術を1から1.1に、さらに1.2にして受け継いでいこうとしている。それは決して2.0にはならない、なってはいけないと僕は思う。

〈今を生きる〉というのは革新的なことをするわけではない。手と感性で古いものを受け継いで新しい世代にパスしていくことである。
そして〈古い〉と〈新しい〉の間には〈今〉が必要だ。
さらに〈今〉を支えるのは〈ここ〉だと思う。時間を支えるにはトポスが要る。

霧生友孝は今、ここ飯南で暮らしている。集落のことを見て町全体を見て県全体を見る。さらに日本全国から世界へと視野を広げる。

この人の過去は決して楽ではなかったのだろう。バランス営業をする生き方が楽なはずはない。
危ういバランスから安定したバランスへ。霧生さんは飯南に来て注連縄という天職と出会うことにより、時間軸と空間軸の基準点を確立したようだ。


地域おこし協力隊の「三年後」の期限は迫っている。出雲大社神楽殿大注連縄の掛け替えは任期終了後。伝承人はしっかりとそれを見届けようとしている。ポスト協力隊の生活設計を考えながら。
視線は全国を見通している、と言いたいところだが、できれば西日本がいいそうだ。

ならば、綾部で暮らすことも選択肢になるはずだ。僕は塩見直紀の本を紹介する。
『綾部発 半農半Xな人生の歩き方88~自分探しの時代を生きるためのメッセージ』。
僕が初めて塩見に会ったときにサインをもらった本だ。


「綾部のお土産本」として編まれた書物には綾部在住「ピースメーカー」が描かれている。その数は八十八人。米という字を分解すると八十八になり、その数だけの手間が米つくりにはかかると言われている。霧生さんのような手仕事人にはふさわしい本だと思う。
この本では綾部の88人を紹介しながら、人生で大事なことや新しいまちづくりにおける成功のコンセプトや法則を提示することをめざした。88人目は誰を紹介しようか。迷ったが、いつかこの本を手に綾部のまちを旅してくれる「あなた」のために空席にしておきたいと思う。
塩見直紀のエンディング・メッセージは霧生友孝に届くだろうか?  すべては国つ神の思し召しということで。



文脈家、原点へ

長い取材を終えて「うぐいす茶屋」を出る。霧生さんは僕の思い出探しに付き合ってくれた。すぐ近くのクラインガルテン。その中心にあるクラブハウス。


ここだ、ここだ。僕は村楽LLP設立準備サミットの集合写真を取り出す。会場に立つ。わずか七年前のこと。あの日あの時、ここにあったアスピレーションは草の根となって、まだ持続している、と信じたい。


もちろん、霧生さんはいなかった。村楽のこともほとんど知らない。だが、僕が拙文を書き連ねるようになった原点を再訪したとき、そばにいる人は僕と同じく広告会社というキャリアを持っている。二人の他には誰もいないクラブハウスで、文脈の交差点に想いを馳せる。


この後、僕は偶然、あの日そこにいた人を引き寄せた。地域おこし協力隊は行政マンとタッグを組むことが多い。霧生さんの相棒は「村楽LLP設立準備サミット」が開催されたとき、クラインガルテンにいた。
集合写真に写っている人物のことを説明してくれる。なぜか本人は写っていない。もしかしたらシャッターを押していたのか?


「県外から偉い人たちが集まっていたんですね」と言われて、世間一般でいう偉い人はいないけどドラマチックな集団の写真であることは確かだ、と僕は思う。

美作市地域おこし協力隊とその相棒行政マン。東京で連携していた「さとまるLLP」のメンバー。高知県本山町の協力隊。長野県阿智村の協力隊。地元島根の吉賀町、美郷町の協力隊。そして、本書を書くために最初に取材した「NPO法人日本エコビレッジ研究会」の多久和さんと召古さん。前日の「塩見直紀講演会」の主催者だった。

その他にも2011年春の「地域おこし」同志たち。4日後の3月11日を経て、今どこでどうしているのか、情報が僕には回ってこない人ももちろんいる。

わずか七年前のこと。飯南町のクラインガルテンの菜園はたたずまいを変えていない。でも、耕す人は変化しているだろう。

そして、コンテキスターである僕の情況も、もちろん変わっている。七年の歳月、走り続けた。地球3周分以上の走行距離を愛車は記録している。見たこと聞いたこと。書き続けたこと。もうできなくなったこと。持続できていること。

様々な文脈は流れ続けている。
そこに「棹させば」どうなっていくのか。まだまだ書きたいことがある。
原点に帰ったからといって、円はまだ閉じていない。やっぱりこれはネバーエンディングストーリーなんだな。